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■駄文(日々考えること)

本を読む大切さ、無駄な知識について考える。ネットでの情報と本から得る情報は何が違う?

2017/09/13

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最近ふと思うのが「読書って大事だなあ」ということ。
ぼくはもともと読書家で、かなり多くの書籍を目にします。
中でも好きなジャンルは「雑誌」と「小説」(ビジネス書やHow To本は読まない)。
雑誌は情報集に活用し、小説はそのストーリーを楽しむ、といった感じですね。

ただし最近はネットで情報が容易に手に入るようになったりしたため、めっきり(特に雑誌は)それらを読む機会が減ったのも事実。
その代わりにネット上で文字を読む量は飛躍的に増加していますが、それでもやはり活字(紙)とは違う、と感じるのですね。

どういうことかというと、ネット上で読む文字というものはメルマガやニュースなど「送られてきたもの」や、こちらから何か情報を得ようとして「探しに行ったもの」が大半。
メルマガやニュースは商業的に「伝えたい情報を、発信者が一方的に伝えるもの」で、検索して探しに行ったものは「自分の欲しい情報だけ=情報の断片」。

つまりそこには無駄がなく、情報を獲得する手段としては非常に有用となっているのは間違いありません。
よって、書籍に比べると情報収集効率が優れるとは思います(一冊の本の中から求める情報を探すのは困難)。

一方、現代において書籍を読むという行為は「無駄」に近く、同じ情報(求める情報が明確であればあるほど)を得るにはネットの方が圧倒的に速く、密度も濃いのは間違いの無いところ。
そのためにぼくもネットの活用頻度が高くなっているのですが、最近「このままではいけない」と考えるわけです。

上述のように書籍を読むのは現代においては「無駄」な行為で、求める情報にたどり着くまでに相当な時間と労力を費やすことになります。
しかし、ぼくはその「過程」が結構重要だと考えていて、その過程で得た情報がどれだけあるのか、がその人の厚みを決めるのでは無いか、と考えることも。

必要な情報はその時は役に立ち、無駄な情報は後で役に立つと考えていて、無駄な情報はその時いらないように思えても、のちにきっと自分を助けてくれるときが来る、と考えているのですね。



たとえば、ぼくが「フェラーリ・ディーノ」について調べるとします。
ネットでそれを調べると、ディーノについてのスペックや、その誕生の由来を知ることができ、ちょっとした「ディーノ博士」の誕生です。
しかし、書籍にて「ディーノ」のスペックを調べようと思うと、まずどの書籍を選べばよいかわかりませんし、仮にどの書籍に情報があるか分かったとしても、「何ページにあるのか」は読んでみるまで分かりません。

しかし、そうやって欲しい情報を得るまでの過程で触れた情報というのはネットで「必要な情報だけを」検索していては得られないもので、そういった(その時としては)無駄な情報の中に、エンツォの人となりや、フェラーリの成り立ち、考え方を理解する要素が詰まっている、とも考えるわけです(これらを知った上でのディーノの理解と、知らずにディーノのスペックだけを把握するのとでは”何か”が違う)。

加えて、ネット上の情報は「情報を伝えること」を前提に”無駄のない”構成や文章となっていますが、小説は情報を伝えるのではなく「感動を」伝えるもの、もしくは「人の心を動かす」ものであり、そこが最大の相違点ではないかと考えています。

よってネット上の文字情報ばかりを追っていると感動することが少なくなり(もちろんネット上にも優れた文章はあるものの、一冊の本に比べるとその情報量は劣る)、感動することが少なくなると人間としての厚みが薄くなるのでは、という危機感を持っているのですね。

加えて本サイトは「情報サイト」に分類されるかとは思いますが、ぼくが伝えたいのは単に「非常な情報」ではなく、「人生を豊かにしてくれる何か」であって(情報を伝えるだけのサイトはいくらでもあり、しかしぼくは”その中の一つ”にはなりたくない)、それは「無駄な情報」に置き換えられるかもしれません。
そういったことを伝えるには、ぼく自身もっと人間としての厚みを(無駄なことを知ったり理解したり、心を動かされることで)増す必要があり、今後は以前のように書籍に割く時間を多く取ろう、と考えています。

日常生活においても、ちょっと気分を変えて遠回りしたりしてみると、そこで思わぬ美味しそうなレストランを見つけることがあったりして、やはり人生において「無駄」は必要なのかもしれませんね。

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