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「人生は舞台なり」。ぼくたちは自分の役をうまく演じることができているだろうか

2018/03/03

| ぼくたちは自分の役割を演じるしかない |

「人生は舞台なり、人はそれぞれ役者にしか過ぎない。」

とはシェイクスピアの言であり、いくつかの著書において同じ意味の、しかし異なる言い回しが用いられています。
ぼくは常々人生や運命、というものについて考えを巡らせるわけですが、それでもなお、やはり人生とは与えられた舞台でしか無く、そこでは、ぼくたちは哀れな役者にしか過ぎないのではないか、と考えるわけですね。

しかも、その役をよりうまく演じなければならない

ただし与えられた舞台で演じる役者といえども筋書きは自分であるていど決めることができ、与えられた役割をうまく演じることができれば、より良い役が手に入るのではないか、と思うのです。

たとえば、今日大手取引先と商談に行く、という役柄が与えられた場合。
うまく演じてその大役を果たし、契約にこぎ着けたならば、次はより良い役(昇進)につけるかもしれません。
そして、ほかに与えられた役が、良き恋人や、良き夫や、良き妻である、という役割であったなら。
それらをうまく演じることで、より良い人生になるのかもしれません。

そもそも、ぼくらは好き好んでこの世に生まれてきたわけでもなく、生まれる場所や容姿も選べるわけでもない、というのが悲しい現実。
かつ、実際の生活においても「好き勝手」できるわけではなく、社会の一員として生活する場合は、社会的ルールを守ったり、経済活動の一員としての役割を果たす必要があります。

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大人になれば「経済」に組み込まれる

そもそも「経済」とは、太古の昔に物々交換から発展し、”貨幣”でものを買う、という活動が発生したことが起源だとされますが(そして最初の経済活動は売春だとも言われますが)、それが絶え間無く発展を続け、現在ではビットコインのように「お金でお金を買う」時代に。

そういった「投資」は別にしても、普通に生きて行くだけでも「働いて、対価としてのお金を得る」のはぼくらに与えられた役割だと言え、これを拒否することはできない、というのもまた現実。
(特殊な例を除いて)働かないという選択肢は現代において社会からのドラップアウトをも意味するわけですね。

本来「生活に必要なものを手に入れ、生活を便利にするためにはじまった」経済活動ですが、時を経るにつれ、それはぼくらを手かせ足かせのように束縛し、その自由な動きを妨げるようになったというのは皮肉な現実。
経済活動・生産的活動を行わないことは社会からドロップアウトすることだけではなく、場合によっては直接的な「死」すら意味しかねず、ぼくらは自分の演じたい役すら演じることができない「哀れな役者」ではないか、とときどき感じるのですね。

そしてブルース・スプリングスティーンが歌うように、「ほかの誰かを演じようとしてみても、結局自分はどこまで行っても自分でしかなかった(ぼくらは他の誰かの役を演じることはできない)」と、 いつかは気づくことになるわけです。

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