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■駄文(日々考えること)

「運命を変えることはできるのか」。運命について考える

2016/08/12

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「運命は変えられるか」とはよく言われますよね。

A.運命は変えることができるか
B.運命は変えることが出来ないか

というものですが、ぼくは「B.運命は変えることが出来ない」と考えています。

ただ、一人の人生が固定されているかというとそういうわけでもなく、ぼくの考える運命とは「固有性」のことなのですね。
たとえば絶対音感を持って生まれつく、絶対味覚を持って生まれつく、そういったことです。
もちろんそうでなくても、単に性格的なものもあります。

先天的要素は後天的要素に優先する、とぼくは考えていて、表層的な性格は後天的に形成されるとしても、深層的な性格というのは先天的に形成されていると考えているのです。

少し前、生まれた時の「取り違え」が問題になりましたが、それも「取り違えられた長男の性格が他の兄弟たちと異なっていた」ことから疑惑が生じたと言いますし、もし性格が後天的に形成されるのであれば、同じ環境で育った長男も、次男達と同じような性格になるはずだ、と考えるわけです。

そんなわけで、人の固有性というのは生まれた時点である程度決まっており、それをどう活用するか、というのがその人の人生だと思うのですね。

絶対音感を持っていれば(それが自覚できれば)音楽関係の職業につくのが良いでしょうし、絶対味覚を持っていれば、飲食関連が良いかもしれません。
つまり、ぼくは、すべての人は「運命」を背負って生まれており、その運命を探し求める旅が人生である、と考えているのですね。
すべての人は生まれた理由があって、その理由を全うするのが人生ではないか、ということです。

逆に「運命は変えられる」ということであれば、生まれた時点では「運命」はなく、生まれた時に意味を持っていないということになります。

そして、ぼくらは後天的に変えることが出来ない、いくつかの要素があります。
身長であったり、顔であったり、運動能力であったり。
そういったものを変えることができない時点で「人は平等」ではなく、それぞれに向き不向きがあると考えているのですね。
その時点でどうやってもなれない職業、どうやっても進むことが出来ない道、というのがあるわけです(逆にいかに資質を持っていても、環境に閉ざされるケースも多々ありますが)。

すべての人はなんらかの意味を持って生を受けており、その個別の意味を求める必要がぼくらにはあって、人と同じようにする必要も、人と同じような人生を歩む必要もない、とぼくは考えています。

自分にできること、自分の能力というものをただしく理解し、それを有効に使ったり、人々の役に立てる方法を考えることが、その人の「運命」かもしれないと考えており、その意味では生まれついた固有の能力や性質=生まれた意味が個々に異なるという意味では「運命は変えることが出来ない」と考えているわけです。

その観点では「運命」とは”結果”ではなく、その人の持つ、または持つべき「意味」である、とも考えています。

そして、その意味を探し続けることが人生なのでしょうね。

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