普通がいい人、普通でないのがいい人
世の中にはいろいろな人がいます。
たとえば「普通じゃないからダメだ」という人と、「普通じゃないからイイ」という人。
ある種の分け方をすると、そのように分類することができるかもしれません。
ぼくは挑戦することのリスクを恐れない
たとえば、ぼくが家電メーカーに勤務していて、企画会議で突拍子も無い新製品を提案したとします。
「部長!新たなマーケット開拓を目指し、(試作品を見せながら)全く新しいジャンルの製品を提案します!」
しかしながら、ある種の部長は、
「あーダメダメ。こんなモン売れるわけないだろ。どこもやってないし。ここをこうして、そこをああして、こんな具合に普通っぽくした方が売れるんじゃないか、パナソニックみたいに」
と言うわけです。ぼくは、あえて既成の製品イメージから脱却しようとしているのに、それを既成のイメージに逆戻りさせられるわけですね。
しかし、また別の部長は、
「おおーイイネ!よそがやってないからこそ、やってみる価値があるんじゃないか」
と言うかもしれません。
※サントリーの「やってみなはれ」は有名で、故フェルッチオ・ランボルギーニも「ダメだったら責任を取るからやってみろ」という懐の広い人だったらしい
もちろん「枠」から出てしまうことはある種のリスクが伴いますし、商業の場合、それはコスト負担となるわけですね。しかし、それを承知しながら、あえて挑戦する価値があること、それが「普通ではない」ことへの挑戦でもあるわけです。
ぼくはお察しのように凡庸をひどく嫌う人間ですので、周囲からも「普通になれ」と言われることしばしば。
ただ、「自分」を貫き通すことの弊害、場合によってはその無意味さをじゅうぶんに理解している「つもり」ですので、だいたいにおいては「普通のフリ」をして自分を偽っています(自分の考えを説明し、理解を得るのに労力がかかる。結果として理解を得られない場合が多く、その場合は変人や異端のレッテルを貼られるだけなので、最初から黙っていたほうがいい。そして黙ったまま挑戦し、その結果をあとで見せる)。
こういった行動を取ることについて、普通の人、すなわちぼく以外の人が「普通でない行為や考え方」にどのような反応を示すのか、ということを経験上理解しているからなのですが、そうやって普通の人々に紛れ込んで普通の人のフリをしていると、自分が何者であるのかを忘れそうになることもあるのですよね。
およそすべての人は、ぼくに「普通であること」を求めますが、ぼくはぼくであって、他の誰でもないわけです。「普通」になったぼくは、すでにぼくではないわけで、(自分自身でも)存在意義を見いだせず、従って「普通であること」だけは避けよう、と思うのです。