| なぜイタリア人はスーパーカーを作れたのか |
さて、「BizGATE」にて面白い記事があったので、ここで触れて見たいと思います。
その記事とは「フェラーリ・ランボルギーニ生む働き方」。
ワインジャーナリスト、宮嶋勲氏のコラムですが、なぜイタリアではフェラーリやランボルギーニのような優れたものが生み出せるのか、という内容に(直接フェラーリやランボルギーニについて触れているわけではない)。
イタリア人は「実は働き者」説
なお、イタリアの車というと「フェラーリ、ランボルギーニ、マセラティ」といったブッチギリの高性能車と「フィアット」といった大衆車とに二極化。
日本のように「中間層」に集中しているというのとは真逆のパターンなのが面白いところ。
ファッションも同じで、超高級なブランドはやはりイタリアンが多い模様(イタリア人は腕時計好きな割に高級腕時計ブランドは少なく、これはスイスやドイツに対し、自動車同様に技術で劣るからだと思われる)。
同氏は記事にて「イタリア人はもともと義務意識が弱い国民で、自分のものとして感情移入できないことに関心を持てないし、熱中できない」としており、決まった時間で決められた労働を行うこと(アルバイトみたいな労働契約)が苦手な反面、好きなことだとどれだけでも熱中できる、という性質を述べています。
たしかに「パンツしか作ってない」しかし「いかに美しく見せるか」だけにこだわったインコテックスなど、とんでもなく情熱を感じさせるブランドがあり、それは靴やグローブ、ニット、さらに別ジャンルでは家具や食品、そしてワインやチーズでも同じかもしれません。
そういった意味において、宮嶋勲氏はイタリア人をして「とんでもなく働き者である」としていますが、ランボルギーニやそれに関わった人々、エンツォ・フェラーリの半生を見るに十分に理解できるところ(なんせ映画にもできるくらい)。
イタリア人は計画を嫌う
そしてもう一つ面白いのが、日本とイタリアとの仕事の段取りに関する差。
宮嶋勲氏は「イベントにおいて、日本は常に綿密なタイムスケジュールを組むが、イタリア人は成り行き任せ」と指摘。
日本だと、「何時に会場オープン、何位何分に挨拶、何時何分に乾杯、それから・・・」ときっちり段取りが決まっているのに対してイタリア人だと「まあ様子を見てから考えればいいじゃない」といった感じなのだそう。
これはイタリア社会そのものが「細かいことが決まっていない(言い換えれば適当かつフリーダム)」、そしてそういった社会で暮らしてきたために「成り行き任せ」という傾向が強いのだとしています。
ここで日本人からすると「なんでイタリア人は計画を立てられないんだ」ということになるようで、しかしいざイベントが始まって予定通りにゆかなくなったりするとイタリア人が本領を発揮し、「成り行きで臨機応変な」見事な対応を行い場を収める、とも。
古代よりラテン語文化には「デウス・エクス・マキナ(Deus ex machina)」というものがありますが、まさにそんな感じなのかもしれません。
なおランボルギーニ・ウルスの(イタリア本国での)発表会において、なんとイタリア首相がいざスピーチを行うという場面でトラブルがあったそうですが、やはりその場ではイタリア人らしく、首相が機転を利かして切り抜けた、というニュースも報じられましたね。
ここでぼくが思うのは、車もファッションもやっぱり同じだ、ということ。
たとえばランボルギーニ・ガヤルドは当然イタリア製ですが、以前にアップした通り、「左右でパネルの隙間が違う」のですが、結局はどこかで辻褄が合ってしまうという不思議な車。
結局最後はうまくゆくのがイタリア流
アパレルでも同じで、なんか縫い代がずれてるんじゃないか?と思っても着てみるとぴったりなのがイタリア製。
反面日本製の衣類だと、部分部分が「きっちり合って」はいるのですが、着てみるとなんとなくしっくり来ないことも。
車も同様で、日本車はその部分一つ一つをとると正確に作られてはいるものの、完成した状態だと「魂を揺さぶられない」ようにも思います。
これはビジネスも同じで、たとえば日本式の目標設定や評価において重視されるのは「手段」。
なにをどうやって、というところが重要になるわけですね(日本でHOW TO本の人気が出るのもこのためと思われる)。
ここでいつの間にか「目的」と「手段」が入れ替わり、いつの間にか本来の目的を見失って「手段」を達成することが目的にすり替わり、「小さなこと」しか達成できなくなっているのかもしれません(しかもそれで達成感を得てしまっている)。
これがイタリア式だと「手段よりも目的を達成すること(いかような手段を用いても目的を達成すること)」が重視され、それが故にフェラーリやランボルギーニという「比類ない」スーパーカーが誕生するのかもしれませんね。