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自動車に対するスタンス、そしてランボルギーニ・ウラカン、そして挑戦

2014/01/22

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ぼくは車に対して一定のスタンスを持っています。

ガヤルドのページにも記載したものをウラカン向けに少し調整し、下記にぼくの考えるところを記載します。

なお、ボクスター購入時から今に至るまで、ぼくの基本的スタンスはまったく変わっていません。

ぼくの掲げる信念のひとつとして、「その金額の金を遣えない人間は、その金額の金を稼げない」というものがあります。

たとえば、手元に5000万円あったとすると。

それを遣うことを躊躇する人間(様々な理由があります。遣う前に返すべき借金がある、将来に備え貯蓄する、 など)は、5000万円を再び得る(または稼ぐ)ことはできないけれど、その5000万円をパっと遣い切ることが出来る人間は、また5000万円を得るこ と(または稼ぐ)ことができる、というものです。 5000万円を思い切りよく遣い切ることで、その人間のスタンダードは5000万に引き上げられるわけ で、「5000万円に値する人間」になるのだと思っています。 それが、ぼくの考える「カネは天下の回りモノ」であり、投資でもあるのですね。

仮にそれがモノを作っている人間であれば、自分自身はお金を遣う甲斐性がないのに、他の人にその(同等かそれ以上の)お金を遣わせるものなど作れようはず もないと考えるのです。 自分自身で1000万円を使うことをためらう人間が、たとえば5000万円の価値のある商品を作ることができるのか、ということ。 それを体験したことがない、それを手にしたことがない人間が、そのレベルに到達することはできないのです。 しかし逆に、お金を遣う人間は、遣ったお金から何かを学び取ることもできると思うのですよね。 モノを買った、ギャンブルに遣った、飲み食いに遣った、旅行に行った。 用途は何でもOKだと思います。 しかし、それだけのお金を遣った経験というモノや、ある種の自信は必ず本人に蓄積されるわけで、それがその人間 の「スタンダード」だと考えるのです。

ポルシェ911カレラを購入するときも、正直「車に1000万円」なんてとうてい無理無理絶対無理と考えていましたが、イザとなるとなんとか買えてしまうもので、そうなると、「1000万円の車を買った」という事実がぼくの中で何かを形成するのです。 そしてその「何か」がぼくに良い影響を及ぼし、ぼくを動かすわけですね。そうやってぼくは自らのスタンダードを切り上げて現在に至るのです。 ぼくにとってもっとも危険なのは、「上を見るのをやめること」「挑戦する前に理由をつけてやめること」。

そうするとぼくは停滞してしまい、自分が出来る範囲内のことだけを適当にやって毎日を過ごすようになり、たとえ上を見たとしても、それを自分のも のや自分の世界として捉えずに、「ただ羨ましがるだけ」「他人の成功を僻むだけ」の人間に成り果ててしまうのです。

なので、ぼくはお金を遣うことを躊躇しない(ように心がける)タイプですが、それでもある一定の金額を超えると恐怖は発生します。 たとえばランボルギーニを買おうとなると、今ではもう優に3000万円を超える価格帯。

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3000万円といえばマンションも買える金額で、その金額を一台の車につぎ込むのはさすがに躊躇しますよね。 しかし、その金額を払ってクルマを自分のものとしたとき、ぼくのスタンダードは明らかに変っているはずなのです。 そういった意味では、買える(と言っても借金が必要ですが)金額や過去に買った金額範囲内の車ではなくて、自分のスタンダー ドを引き上げるためにも、さらに上の価格帯を狙ってみるか、と いう気持ちになってくるのですね。 (現実的な部分では、ランボルギーニを購入した方が不動産取得よりは値落ちが少なく済みそうだ、という妙な言い訳も考えますが)

「買える」と考えて行動すれば、この低金利時代、比較的高価な車でも、なんとか買えてしまいます。 逆に、ハナから「そん な車買えないよ」と考えてしまうと、現実的には買えるはずの車であっても、買うことができなくなってしまうと思います。

「できる」と思えばできないことだってできるはずだし、「できない」と思えばできることだってできなくなる、と考えています。 ぼくは、はじめから 「できない」と決めつけて自分の限界を勝手に決めたり、可能性を閉じこめたくはないのです。

そういった意味では、「今買えてしまう」クルマではなくて、「今は買えないけれど、なんとか買うための努力をして」買った車の方が、ぼくにとって価値のある一台、そして意味のある一台になるのではないか、と考えているのですよね。 ちょうど、12年前に「ボクスターS」を、9年前に「カレラ」を買うために知恵を絞り、その知恵が今のぼくを支えてくれているように。

たとえば、ぼくが12年前にボクスターSを買わなかったら、と思うことがあります。 もしくは9年前にカレラを買わなかったら? ぼくのガレージにはボクスター が無いだけ、もしくはカレラが無いだけで、他は全て同じだろうか、と考えるのです。

仮の話でしかないけれど、その問いに対して、ぼくは何の迷いもなく「同じではない」と答えることができます。 ボクスターSを買う努力をしなかったら、カレラを買う努力をしなかったら、いまのぼくは無いだろう、そう断言できるのです。

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あのとき努力したからこそ今のぼくがあるわけで、もしかするとボクスターSではなくカレラ、カレラではなく911ターボを買う努力をあのときしていたのなら、ぼくの今のスタンダードは今現在もっと高いかもしれない、とさえ思うのです。 そういった意味においては、クルマはぼくにとって「クルマ以上の」価値がある、と考えます。 ぼく自身を引き上げてくれる ような何か。そういったものですね。

車は無機質な物質の集合体ですし、ぼくは車に人格があるとは考えてもいませんが、ぼくは、そういった感謝の念をいだきながら、常に車に接するようにしています。 それが、無理してまでランボルギーニを購入する理由ですね。

そして、いつか過去 をふりかえったとき、「あのとき、ムリしてランボルギーニを買ったからこそ今の自分がある」と思える日が来ると信じています。

こうやってガヤルド購入時に記載した文章を振り返ってみると、「あのとき、ムリしてランボルギーニを買ったからこそ今の自分がある」思えたかどうか、ということに対して解を見出す必要があります。 ただ、この件に関しては、問われるまでもなく「イエス」であり、ガヤルドの購入がなければ、おそらくウラカンを今こうして購入することも無かったかもしれません。

ガヤルドを購入することで行った努力とその結果、そして自分の身についたもの、そこから得た人間関係など。 これらはお金では購入できないものです。

苦労はお金を払ってでも買え、とは言いますがお金を払って苦労を買ったことで得たものは、苦労以上に大きなもので、それがぼくの今後の人生に大きく役立つのは言うまでもありません。

一部の魚は入る水槽にあわせて大きくなるとも言われますが、その水槽を大きくする努力をぼくはしたい、と思うのです。 「自分はこんなものだ」とその水槽の大きさを決めてしまうことは、自らの可能性を限定してしまうことでもあり、どこにも行けなくなってしまうことだ、と考えるのです。 ぼくらには無限の可能性があるのに、その可能性を放棄する必要は無い、と思うのですね。

ぼくはさほど強い人間ではないので、なにか負荷をかけないと努力を怠ってしまいます(目標が無いと努力できない)。 その負荷や目標はぼくの場合、自分に対する「投資」と置き換えることが出来ます。

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今回はそれがウラカンになりますが、何か大きな、達成不可能とも思える目標を設定すれば、自ずと「今の方法では到底購入できない」ということになります。 じゃあどうやってお金を稼ぐ?宝くじでも買う?ギャンブルか?なにか新しい事業を起こす?株か? そうやってあらゆるチャンスを検討し、自分にとってもっとも可能性が高い方法を選び、それを実践するわけです。

「投資」というと、日本では株やFX、不動産や商品などへの投資が一般的な感覚だと思いますが、「自分に対する投資」も大きなリターンがあるものだと思うのですね。 外観にお金をかけて見栄えを良くすれば、それだけで得することがあるかもしれません。 お金をかけて良い学校や専門学校で技術を身につけるのも将来的なリターンを見越した投資です。 自分には不要と思えるソフトウエアを購入し、しかしそのソフトウエアを使いこなして利益を上げるのも同じです。 はたまたサーバースペースを借りてアフィリエイトを始めるのも投資です。

たとえば子どもがPCを欲しい、と言い出した時に両親が「そんなものは必要ない」「まだ早い」と買い与えなかったとします。 ですが、もしPCを買い与えていたら、そのPCで何かを考え、それをもとに何か利益を生み出す可能性があるかもしれないのです。 すぐにアプリを開発して収益を得るかもしれませんし、成長してからスキルを発揮してお金を稼ぐかもしれません。

両親がPCを単なる「お金の無駄遣い」と考えてしまうと、子どもは何も生み出しません。 ですが、両親がそこで投資すれば、子どもは何かを生み出す可能性を得ることになります。 両親の思い至らない可能性を子どもは秘めているかもしれず、しかし両親が狭量であればその可能性を刈り取ってしまうかもしれない、とうことです(教育方針の問題もあり、一概には言えませんが)。

上記は親と子の喩え話になりましたが、どのような関係でも同じで、要は「自分のことは自分でしかわからない」ということで、他人は自分の可能性など理解しない、ということです。 なので、自分の道は自分で切り開くよりほかありません。 (ビル・ゲイツの「学校では教えてくれない人生に役立つ11のルール」というものが端的です)

そして、お金がもったいないから、と何も投資を行わなければ、そこから進歩はない、と思うのですね。 使わなかったお金はそのまま残ります。ですが何も産みません。他のことにそのお金を使って消えるかもしれません。 お金を使うと、そのお金はなくなります。ですが、正しく使えば、なんらかの形でそれは戻ってきます。

そして、そのお金の使い方は人様々です。 モノづくりを志すのであれば、より多くのモノを購入して、それを作った人々の考えに触れるのが良いかもしれません。 芸術を志すのであれば、多くの芸術と触れるのが良いでしょう。 旅行ガイドで生計を立てるのであれば、自身もトラベラーである必要があります。 人とのコネクションを重視するのであればひたすらパーティーに参加するのも良いかもしれません。

それはある意味「自己レバレッジ」とも言えるものです。 一般的にレバレッジとは自己資本を有効に使って利益率を向上させることを指しますが、自己の持つ資本(お金)を利用して自分の潜在的資本(自分の可能性)を購入し、それでより大きな利益を生み出すことが重要ではないか、と思うのですね。 なお、一般的なレバレッジの概念は下記のとおり(Wikipediaより)。

例1)事業会社が100円の自己資本を持っている場合、総資産は100円である。総資産100円から100円の売り上げと10円の利益がもたらされることが期待できる場合、100円の自己資本に対して利益率は10%となる。ここで市場が非常に有望(拡張性がある)と想定した場合、400円の他人資本(借り入れ)を導入し、総資産を500円にしたとする。その場合、総資産500円からは500円の売り上げと、50円の利益(営業利益)がもたらされる。400円の借り入れに対する利払いが、5%の20円だとすると、利益(経常利益)は30円となる。これで、自己資本に対する利益率は30%となる。

 例2)100円の自己資本で100円の土地を買い、それを担保に80円借り80円の土地を買い、それを担保に60円借り60円の土地を買い、それを担保に40円借り40円の土地を買い、それを担保に20円借り20円の土地を買う場合。自己資本100円で300円の不動産を所有することができる(レバレッジ3倍)。この場合、金利を考慮しなければ不動産価格が平均10%上昇すれば自己資本は130円になる。 

もうひとつ、人的レバレッジ、というものもあります。 人が多くの収入を得ようとすると、生産性を上げるよりほかありません。生産物=報酬と考えられるからです。 その生産性を上げるには2つの方法があると考えられます。

1)労働時間を延長する 2)生産物の質を上げる

ということですね。

生産効率が同じであれば、より生産する時間を増やすことで生産物=報酬は増加します。 もしくは、生産物の質=価値を上げれば、生産物あたりの利益は向上します。これは「生産効率を上げる」という意味も内包すると考えることが出来ます。

ぼくらの時間は等しく24時間です。 なので、1)の方法では限界があるわけです。 2)については自分の能力を向上させて生産効率を上げる、生産物の質を向上させることが主な手段となります。

そしてもうひとつ考えられるのが、「スキルを持つ人間を活用し、自分の脳力を超える生産を行うこと」。 以前に、日本と欧米の起業スタイルの相違を記載しましたが、まさにそのとおりです。 自分でスキルを身につけるのは時間的問題や限界があり、であればそのスキルを持つ人間同士を組み合わせて組織を作り、高い能力同士を相互補完するという方法ですね。 デザインに優れる人間、人的マネジメントに優れる人間、法的業務に優れる人間、会計に優れる人間、営業に優れる人間など。 雇用でもアウトソースでも構いませんが、それらの個人も、有効活用によって「個人で活動するとき以上の」成果物を生産できる可能性があるわけです。

デザイン力に優れる人間は自分で営業しなくてもほかの人の営業力で自分のデザインを金銭に変換することができ、営業力に優れる人間は自分がデザインできなくとも売るべきデザインが手元にあるわけです。 これはまさに自己資本と他人資本とを組み合わせ、それぞれ個別である状態よりも高い利益を得ることができる状態ですね。

なお、WEB上の様々なサービスを利用すると、比較的簡単に人材や資金の手配を行うことができ、便利な世の中になったなあ、とは思います。

大きく話が逸れましたが、何か自分にトンデモナイ負荷をかけたとき、必要は発明の母ではないけれど、なにか新しいことをしないとその負荷をクリアできないわけで、そういったときにぼくは上記のようなことを考え、なにかを始めたりします。 そしてそれが結果を出せば、ぼくの今後の人生を支えてくれる可能性が高くなる、ということです。

失敗したらその時はその時ですが、「何もせずに他人を羨んだり妬んだり僻んだりして終わる人生」よりははるかにマシです。 知らない間に年齢だけを重ねましたが、今回のウラカン購入にあたり過去を振りかえったとき、逆に自分の人生に対してもっと積極的で、チャレンジングであっても良かったのではないか、とも考えました。 そのため、おそらく残り半分を切った人生において、もっと攻めても良いのではないか、とぼくは考えています。

なお、ぼくは意外と堅実で慎重であり、失敗に対するカウンターも用意してから行動する、もしくは失敗してもマイナスにならない範囲で行動します。 このあたりは「石橋を叩いて渡る」どころか「石橋の安全を確かめるため石橋を叩きすぎて壊してしまう」ほど慎重な父の性格を受け継いでいると言えるでしょう。

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