■駄文(日々考えること)

ボクが組織に属さない理由とは(前編)。「人が人を評価するということに疑問を感じたから」

2019/04/27

はっきり言って、ぼくは組織に属するのが苦手です。

そのためにぼくは早々に「脱サラ」していますが、その理由について今回は触れてみたいと思います。

まず、大きな理由としては「会社組織とは不条理だから」。
会社とは人の集まりで、組織の中で仕事をするわけですね。

そうなると上司や部下がいて、中には不条理な上司がいたり、悪質な部下もいるわけです。

そもそも人が人を評価するということ自体が不自然

そして会社員は「評価」で人生が決まることになりますが、その評価自体がそもそも適正にできているかという疑問も。

視点を変えると評価も180度変わる可能性があるということですが、たとえばその部署にて、成果が出ていない場合。
成果が出ていないその理由として「チームメンバーの考え方がバラバラで統率が取れていないことが原因だ」と指摘されたとします。
チームワークがなってない、と。

ですが全く同じ人員構成であって同じように各々が行動していたとしても、成果が出ている場合では、成果が出ていない場合にバラバラだと評された内容が、「メンバー各自が、自主性を持って独自に行動している」と正反対に評価されるかもしれない、ということです。

同じように、事情が変われば「アイツはいつも遠慮してモノをはっきり言わない」という評価が「あの人はいつも他人に配慮して和を乱さないようにしているね」と変わるかもしれませんし、「なんて自分勝手なヤツなんだ」という評価が「行動力がありリーダーシップを発揮している」と変化するかもしれません。

つまり同じ人間が同じ行動を取ったとしても、成果が出ている場合と、成果が出ていない場合とでは真逆の評価が下される可能性があるわけですね。

そして「成果」とは自分の頑張りだけではどうしようもない場合もあり、社会情勢によって変化したり、そもそも上司の尻拭いをさせられたりする場合も。

そんなときはやはり「なんでだよ」となるわけで、自分自身は変わっていないのに、周囲の状況や、自分を陥れようとする人のせいで不当な評価を受けることになる、ということです。

人は見たいようにしか見たいものを見ない

さらに「人は見たいようにしか物事を見ない」という事実もあり、そういった人の物事に対する捉え方を変えるのは非常に困難。

これは自分自身についても言えることで、たとえば自転車やバイクに乗っていると「クルマが邪魔だ」と感じ、一方でクルマを運転しているとバイクや自転車をを邪魔だと思うのに似ているかもしれません。

シェイクスピア曰く「世の中の最大の不幸とは、すべての人が自分の言い分が正しいと信じて疑わないことだ」とのことですが、あまりに不条理な環境に身をおくことにウンザリしたというのが、ぼくが組織から離脱した理由でもあります(そしてそういった組織はそもそも成長しない)。

そして組織から脱すると何一つ自分を守ってくれるものはなくなる反面、自分をスポイルするものも消失して、「すべては自分の責任」において動けるようになり、ずいぶんすっきりしたな、というのが正直な印象。

成功すれば自分に全部リターンがある反面、失敗すればそのぶん失うことになるというリスクの大きな人生ではありますが、自分でコントロールできない要素に囲まれたまま組織に属するのもひとつのリスクですし、「成果が上がれば自分のおかげ、成果が上がらなければ部下のせい」な上司の下にいるのもまたリスクである、とも考えています。

とにかく人の見方次第で自分の評価が変わったり、その評価を気にして過ごすのは時間と人生の浪費でしかなく、本来の仕事そっちのけでそういった「ゲーム」に興じる人々の中にいることは著しく自分を疲弊させることになるわけですね。

ぼくはそういった無駄なことに時間を費やしたくはなく、そして人の評価に左右されるのではなく、自分自身だけを自分の主として生きたい、と考えているのです。

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