■駄文(日々考えること)

スーパーカーを買おうと思ったらやっぱり努力するしかない。しかも「他人や組織のため」ではなく「自分のため」にする努力が重要だと思う

2022/06/03

フェラーリ

| 他人よりもいいものを持とうと思ったら、他人より努力するしか無い。それは人類の歴史が始まったときから変わらないと思う |

簡単に手に入るものにはあまり意味がないし、それに満足してはならないとも思う

さて、相変わらずよくいただく問い合わせが「どうやったらスーパーカーを買えますか」。

ただ、これに関して最近ハタと気づいたことがあり、それについて述べてみたいと思います。

そしてこの「気づいたこと」というのは「どうやったらスーパーカーを買えますか」という質問は「どうやったら”楽をして”スーパーカーを買えますか」という質問と同義なんじゃないかということ。

つまり「どうしたら痩せることができますか」とモデルさんなどに尋ねる人の多くが、その意図として「どうしたら”楽して”痩せることができますか」「どうしたら”簡単に”痩せることができますか」という意味で聞いているのと同じなんじゃないか、と思ったわけですね(モデルさんは楽して痩せているわけではないが、他人の努力はあまり目に入らないので、簡単に痩せたように見えるのだろう)。

簡単にスーパーカーを買える方法などない

そして簡単に、楽をして痩せる方法が存在しないのと同様、「簡単に、楽をしてスーパーカーを買う方法などない」というのがぼくが伝えたいことでもあり、たとえば「痩せる」には摂取カロリーを減らすというインプットの問題、そして消費カロリーを増やすというアウトプットの問題があり、インプットよりもアウトプットを大きくすることが必要で、人によってそのバランスが異なります(インプットを減らす人もいるだろうし、アウトプットを増やす人もいるかもしれない)。

スーパーカーに話を戻すと、スーパーカーを買うためにはある程度の資金が必要で、その資金を貯めるには「インプット(所得)」を増やしつつ「アウトプット(支出)」を減らし、いかに計画立てて資金をためてゆくかが重要で(もしくはインプットを極大化できればアウトプットを減らさなくてもいい)、溜まった資金を頭金としてローンを組む場合には「毎月どれくらい支出できるか」という計算も重要になってきます。

たとえば最初にいくら必要なのかを算出し、その後にその必要金額に達するよう毎月10万を貯めて年120万円、それを5年続けて600万円貯めて頭金にし、何年ローンで毎月いくら返すといった計画が必要になるわけですね。

よって、まず(お金に余裕がある場合ではない限り)お金の計算ができること、自分の生活をコントロールできることが大事な要素となるかもしれません。

マクラーレン・アルトゥーラ

とにかく努力するしかない

そしてお金の計算ができたとしても、お金が入ってこないことにはどうしようもなく、ここからが今回の本題。

上で述べたとおり、スーパーカーを楽して買える方法などは存在せず、他のクルマよりも高いクルマを買おうとするならば、他の人よりも高い収入を得る以外はないわけです。

そして他の人よりも高い収入を得ようと思うならば、他人よりも努力するしかなく、これはお金を稼ぐ上での基本であり、他の人が遊んでいるときに自分は遊ばずに努力する、他の人が寝ているときに自分は寝ずに努力するとかそういったことですね。

ただ、やみくもに頑張って働いたとしても意味はなく、たとえば時給制の仕事であれば24時間不眠不休、週7日働いたとしても稼げる金額に「上限」があり、それではスーパーカーを購入するには不足が生じるので、もっと稼げる仕事に就く必要があります。

そして、他の人よりも稼ぐということは、他の人よりも優れたパフォーマンスを発揮するということを意味し、そもそも自分が他人よりも秀でている分野を見つける、もしくは他人に勝ることができるジャンルを探すべきであって、それがまだ見つかっていない人は「それを見つける」ところから始めるべきかもしれません。

よって、努力するにしても「正しい分野で」努力しなくては意味がなく、正しい分野を見つけることもまた努力のひとつなのでしょうね(そして、往々にして”やりたいこと”と”できること”は異なる)。

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同じ努力するにしても他人のためや組織のために努力せず、自分のために努力する

なお、ぼくがいつも思うのは、努力するといっても「自分のため」に行うべきであり、他人や組織のために努力すべきではない、ということ。

どういうことかというと、他人に認められようと思って頑張ったり、組織内で評価を得ようと頑張ったとしても、その他人がいなくなったり、他人の価値観が変わったり、所属する組織の体制が変わってしまったりしたらこれまでの努力が水泡に帰す可能性があるわけですね。

つまり、その会社にいるうちは「ナントカ会社のAさん」として「ナントカ部のBさん」といった認識のされ方になるかもしれませんが、会社をやめてしまってたただの「Aさん」「Bさん」になってしまったとき、その人に何が残っているのか、を考えなければなりません。

会社をやめて後ろ盾がなくなってしまい、その人の価値がなくなるようであれば、その人が会社で頑張ってっきたことは「無」だと言ってよく、人生を会社に搾取されたにすぎないと言いかえることも可能です。

反面、人に褒められようとか組織からの見返りを求めるでもなく、ひたすら自分の能力や経験値を高めようと頑張って来た人であれば、たとえ会社という後ろ盾がなくなり「なんとか会社のAさん」からただの「Aさん」になったとしても、その人の存在意義を十分に示すことができる、とも考えているわけですね。

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