| 残念ながら市販化されることはなかった |
一台だけがワンオフで作られた「ランボルギーニ・ミウラ・ロードスター」。
1968年のブリュッセル・モーターショーにてデビューしたもので、オープン化にあたりベルトーネによって再デザインされた車です。
単にルーフを「切った」だけではなくフロントウインドウの傾斜が強められるなど、実に注意深く変更が加えられており、この車にかけた情熱がわかりますね。
車高は通常のミウラより30ミリダウン
なお、この「ミウラ・ロードスター」が出来上がった経緯はかなり複雑。
もとはというとアメリカにあるILZRO(国際鉛亜鉛研究機構)がその合金や防錆のためのコーティング技術を広めるためにキャンペーン用のデモカーを探しており、ランボルギーニに声をかけたのがはじまり、と言われます。
ただしILZROは市販車ではなく固有のデザインを持つ車を希望しており、ランボルギーニにもミウラのスタイル変更を要求したものの「ミウラの生みの親」パオロ・スタンツァーニ氏がこれを拒否。
かわりに製作途中であった「ミウラ・ロードスター」を提案したところ、ILZROがこれを受け入れた、という流れであるようですね。
なお上述のようにフロントグラスの角度が変更されるほか、車高も30ミリ落とされ、テールランプも変更。
ミウラの特徴であったリアのルーバーもなくなり、エンジンは「むき出し」に。
このミウラ・ロードスターはまずブリュッセル・モーターショーに展示され、その後にILZROがキャンペーンのためにこれを買受け、一旦車体を分解してバンパーなどのパーツを亜鉛合金に、ホイールやマフラーは亜鉛メッキされてプロモーション用へと変身。
完成後は「Zn 75」とその名を改めて世界中にてILZROの技術をアピールすることになりますが、この時までのボディカラーは「グリーン」。
↓こちらがそのZn75。メッキ部分が多く、たしかにミウラとはちょっと違う印象
ILZROでのキャンペーンを終えた後は競売にかけられて人手に渡り、その後1980年にレストアされてさらにオークションへ。
その後日本のオーナーが所有していたとされますが、また海の向こうへと渡ることとなり2008年のペブルビーチにて現在の姿(ブルーのボディカラー)として登場、現在に至る、ということに。
まさに数奇な運命を歩んだ車だと言えますが、ある意味「もっとも有名で、もっとも貴重なミウラ」なのかもしれませんね。
今思うと、「ガヤルド・スパイダー」登場時のイメージカラーも淡いブルーで、「ウラカン・スパイダー」のイメージカラーも明るいブルーであり、もしかすると両方ともこのミウラ・ロードスターをイメージしていたのでは、と思ったり。
なおフェラーリは市販モデルでも275GTS(1963)、365カリフォルニア(1966)、365GTS/4(1969)、DINO 246 GTS (1972)、308 GTS(1977)などオープンモデルやタルガトップモデルがあるものの、ランボルギーニの市販車においては350GT/400GT/イスレロ/ハラマ/ミウラ/カウンタック/エスパーダ/ウラッコ/シルエットまでオープンモデルがなく、ジャルパでようやくタルガトップが登場しており、あまりオープンモデルを作りたがらなかったメーカーでもあるようですね。
VIA:Motor1