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なぜスポーツカーは人気がない?時代とともに変わる価値観について考える

2017/10/20

なぜ一般にスポーツカーは人気が出ないのか

lamborghini huracan key

やはりスポーツカーって人気無いですよね。
どうもスポーツカーに乗っているというと、「車オタク」「車に人生すべてかけてそう」などというイメージを世間や女性に抱かせてしまうのがその原因かと思います(これは穿った見方をすると、女性にとっては”キモい”という理由ではなく、”自分にお金をかけてくれない””結婚しても家庭にお金を入れてくれない”という保守的な思考によるものかもしれない)。

たしかにバブルの頃はスポーツカーや外国車は人気ありました。「黒いスカイラインが好きだから」という理由で黒いスカイラインに乗っていることを条件に彼氏を探した女性(A子さん:仮名)をぼくは知っています。

その昔、スポーツカーはステータスシンボルだった

そもそも、日本という国はお金持ちになってまだ30年程度(後半は停滞していますが)。
アメリカは100年、ヨーロッパは無敵艦隊とかなんとか言っていた頃から考えると(お金持ちになって)数百年経っているわけですね。

お金持ちになった国で人気が出るのはまず「モノ」。
わかりやすいからです。
かつて発展途上国では携帯電話がステイタスシンボルで、見せびらかすためにわざわざ手持ちで歩いたりするケースが見られ、車が地位をあらわす場合もあります(ちょっと前の中国がそんな感じ)。

バブル当時の日本も同様で、当時で言えば外国車すなわちBMW、そして輸入時計すなわちロレックス(デイトジャストコンビ)が大人気。
それらを保有していた人々はお金があって、かつ流行に敏感だと目されたわけですね。
しかし、お金が行き渡るようになると、モノではなくて「遊び方や行動」に着眼点が移行するわけです(モノよりコトへとシフト)。

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しかし現代では情報を制することがステータスに

ちょっとした隠れ家的なお店を知ってるんだけど、といったスノッブなアレですね(今だとキャンプでリア充アピールといっか感じ)。
つまりここではステイタス・シンボルがハードからソフトへ移行したとも考えられるでしょう。※マズローの欲求段階説に近い
昔は日本でもお金持ちといえばお金持ちっぽかった(ヴェルサーチっぽいレーヨンのシャツを着て金の喜平ネックレスとか)のですが、今のお金持ちは一見してもお金持ちっぽく見えません。
黒いTシャツに短パン、素足に革靴といった感じですよね。
「それだけお金を持っている」ということをアピールする必要が無くなり、またその価値も失われてしまった、ということです。

そういった「変化」を鑑みるに、現在の女性がぼくらに求めるものは情報やその処理能力、そして(行動面における)スマートさではないかと思います。
そういったものが現代の人生には必要であり、またそういったものがお金を産む、ということを理解しているのかもしれません。
時代とともに求められる男性像がかわることになりますが、さらに言えば原始時代はパワフルでマンモーとか狩り倒す男性がモテ男だったと思うのですが、経済時代の到来(貨幣の登場)とともにそれも変わったわけですね。
マンモーを狩らなくてもお金でマンモー肉を買えるようになったとき、彼らの存在意義、つまりレゾンデートルは過去のものとなってしまったのです。

現代も同様で、かつてはお金持ちの象徴でもあったスポーツカーや高性能車を保有することには今や大した意味が無くなってしまい(もちろん女性にとって、です。ぼくらにとってはその意味は大アリ)、そういった価値観の変遷が冒頭にあるような風潮を生む原因となり、そういった車にこだわるぼくらを過去の遺物として女性に認識させるのでしょうね。

反面、男性が女性に求めるものは太古から変化していないかもしれない

しかし、とぼくは思うのです。
求められる男性の”能力”は時代とともに変化しましたが、女性に求められるものは太古の昔より変化しただろうか、と。
もっと簡単に言えば、バブルの頃と今とでは理想の男性像が激しく異なるものの、バブルの頃に人気があった女性像と今現在人気のある女性像、それは変わったのか?変わってない。
髪形とかメイクとか、服とか変わったのかもしれませんが、それはみな”能力”ではなく”外観”にかかわるものです。
時代が変わって、能力のある女性がもてはやされるようになったのか?外観ではなく、女性の内面について、ぼくらが求めるもののウエイトは変わったのだろうか?それも無い。



それは歴史も証明していて、「クレオパトラの鼻が、あと~」とか、楊貴妃とか、そういった存在が証明するように、女性が求められるものは常に「美」であるわけですね。

たしかに原始時代は「美」よりも生活能力みたいなものが求められたかもしれませんが、それでもやはり美しい女性をめぐって男性は骨肉の争いを繰り広げてきたはずです。

そういった意味では美しい女性というのは、不謹慎ではありますが、経済やそんなものを遥かに超越した威力を持つものであって、たとえ能力が無くても、性格が悪くても、経済力が無くても、容姿ひとつで成り上がれる可能性を持っているのでは、と思うことがあります。
そして男性が求めるものはなんとも低次元で身勝手なものだろうとも思たりもします。

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