| 時代が変わらない、買えない限りスポーツカーの復権はない |
さて、世の中でときどき議論されるのが「なぜスポーツカーの人気が下がったのか」。
その理由について、価格が高騰した、マニュアル・トランスミッションが減った、魅力的なスポーツカーの選択肢が少なくなった等言われますが、ぼくが思うのは「スポーツカーは単に(もう)イケてないから」。
かつてスポーツカーはデートに必須だった時代があった
じゃあ逆にスポーツカーに人気があった時代っていつなん?といえば1980年代から1990年代だと認識していて、この時期はスポーツカーに乗っていればモテたわけですね。
じゃあなぜスポーツカーの人気があったのかということですが、それは「乗っているとカッコよく見えたから」なのだと思います。
当時はまだミニバンやSUVという選択肢がなく(これの人気が出てきたのはホンダS-MXが登場してからだと思う)、市場に存在したのはセダン、コンパクトカー、軽自動車、ワゴン、スポーツカーといったボディ形状。
当時の軽自動車は「安く作って安く売る」という考え方が反映されていたもので、乗用車を買えない人向けに作られたのが軽自動車だという意識が根付いており、これが今でも一部で尾を引いているのかもしれません。
スポーツカーは「余裕」の象徴だった
そしてセダンはオッサン臭く、ワゴンについてもレガシィとアコードワゴンが登場するまでは商用車としてのイメージが強かったわけですね。
ただ、スポーツカーだけは違った。
どう違ったのかというと、「実用車っぽくなかった」ということで、つまりこれに乗っていると「あくせく働かなくていい人」「余裕がある人」のように見えたのですね。
今となっては信じられないことではあるものの、当時は携帯電話が普及していなかったので腕時計を身に着けている人が多く、しかしそんな中で腕時計をあえて身に着けないことにより「スケジュールや世の中の決まりに縛られない自分」を演出できたという事実も。※映画「イージーライダー」で、キャプテンアメリカが腕時計を外して投げ捨てる演出も同じ理由
そんなワケで、当時雨後のタケノコのようにニョキニョキ発生したカフェバー(死語)ではこんな会話があちこちで見られたものです。
女:「あら。腕時計を身に着けていないの?」
男:「ああ。時間に縛られたくないんでね。いつでも自由でいたいのさ」
女:「素敵!」
実際のところ、高度経済成長期からバブルにつながる時期では「24時間戦えますか」のコピーでおなじみのリゲインが人気化したり、とにかく世の中のサラリーマンは働き続けて過労死したり、都心に家を購入することが不可能になって「ベッドタウン」が出現したり、満員電車が恒常化したりした時代。
そういった中において「経済力もあるが時間もあり、世の中の”必死で働くサラリーマン”とは違う自分を演出できるアイテム」としてスポーツカーが人気であったのだとも(ぼくの分析では)考えられており、当時の女性(と女性にモテたい男性諸君)はスポーツカーに対して「経済力と余裕のある男性像」を重ね合わせていたのかもしれませんね。
ときが変わって現代では
そして現代はどうなのかということですが、理想の男性像がそもそも変わってきており、バブルの頃の男性に求められた「高身長、高学歴、高収入」ではなく「安定」「安心」「家庭的」と言った要素へと変化そして多様化。
この背景にはバブル経済崩壊による先行きの不透明化があるとされ、こういった状況で「ミニバン」といった家庭的かつ地に足がついたクルマが人気化したのだと思われます。
そして、それと同時にスポーツカーに乗る人は「家庭的ではない」「先のことを考えてない」「浪費家」「自分勝手」というレッテルを貼られることになってしまい、スポーツカーの存在ともどもメインストリームから押しやられることになった可能性が大きそう。
更にその後には「SUV」という新ジャンルが登場しており、こちらはバブル後の停滞期から日本が抜け出し、明るい光とともに登場した救世主。
これのイメージとしては、「アクティブで活動的、殻にこもらず自分の道を自分で切り開く」というものだと考えており、こういったイメージを持つクルマがもてはやされたり、そういったクルマに乗る男性に対して女性が好意を抱くのは自然なことなのかもしれません。
時代とともにクルマに対するイメージは変る
そして相変わらずスポーツカーについてはイメージが改善せず、「不便」「家族で乗れない」「燃費が悪い」「乗り心地が悪い」「うるさい」といったイメージが先行しているように思います。
ここでちょっとそのイメージを「人」に置き換えてみたいと思いますが、スポーツカーがもしも「人」だったらこういった感じだと思うんですよね。
もしもスポーツカーが人だったら
- 不便=役に立たない
- 家族で乗れない=友達が少ない
- 燃費が悪い=金遣いが荒い
- 乗り心地が悪い=気難しい
- うるさい=声が大きい
どうでしょう?
こんな人の人気が出るわけはないとぼくは考えていて、こうやって見ると「そりゃスポーツカーも衰退するわな・・・」という感じです。
あくまでもこれらはぼくの考えていることではありますが、スポーツカー衰退の理由はその金額(高騰)でも選択肢の減少でもなく、世間一般でのイメージの悪化、それによる購入選択肢からの除外ということになり、相当に根深い問題だと考えています。
よって、スポーツカーが復権させるには、「安くて買いやすいクルマ」を作ることではなく「性格はアレだけどとんでもないイケメン(=かっこいいクルマ)」「やはり性格はアレだけど運動能力がブッチギリ(=とにかく突出したパフォーマンス)」というクルマだと考えていて、実際にそういった人物は人気が出ることが多い模様。
つまりは現在のスポーツカーに対する印象を軽く吹き飛ばすような”新しい”スポーツカーを作ることができないため、自動車メーカーはこの状況を打破できないのだと考えています。
ただ、これまでスポーツカーが時代に翻弄されたように、これから一周回ってスポーツカーが注目される時代がやってくる可能性もゼロではないのかも。
現代において、腕時計をしていると「時間に縛られた可愛そうな人」と思う人や、腕時計を外すことで「自由になれる」と考える人がいないと思われるのと同様、スポーツカーについても時代とともにその認識が変わる可能性がありそうだ、と思います。
走り屋についても触れておかねばなるまい
そしてスポーツカーと切っても切れないのが「走り屋」。
スポーツカーとともにこちらの人気も低迷していますが、そもそも走り屋の根本にあるのは「アウトロー精神」だと考えていて、社会に対するやり場のない怒り、鬱積した感情、世の中とうまく馴染めない自分の「居場所」を求めた結果だとも考えているのですね。
つまり走り屋とは「行為ではなく思想である(哲学的だな!)」と考えていて、その表現方法が時代によって「暴走族」だったり「ヤンキー」であったり「走り屋」であったと考えているのですが、こういった”社会に対するやり場のない怒り、鬱積した感情、世の中とうまく馴染めない自分の「居場所」を求める”方法についても変化しており、かつては「社会の規範から逸脱する」ことでそれを解決していたものの、今ではネット上で「同じような考えを持つ人々とつながる(SNSであっても、ゲーム上であっても)」「それによって承認欲求を満たせる」「自分と同じような人がいる環境に身を置くことができる」ようになり、これによって極端な行為に走る必要がなくなったとも考えています。
加えて、そういった反逆者がもう「カッコよくない」という風潮へと変化しており、そのためアウトローに憧れる人も減ってしまい、よってヤンキーが絶滅危惧種となってしまったのと同様、走り屋もまた滅びゆく運命なのだろうと考えています。