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パガーニはなぜ成功することができたのか?一時はテント生活も経験した、オラチオ・パガーニの物語

2018/07/31

| なぜパガーニは強豪ひしめく市場で成功を収めたのか |

東洋経済にて、パガーニがいかにして現在の成功を掴んだのか?という記事が掲載に。
パガーニ創業者、オラチオ・パガーニ氏は過去について寡黙ではないものの、意外とそこに焦点を当てるメディアは少なく、しかし今回は今まで報道されなかった内容も紹介されており、なかなかに興味深いものとなっています。

なお、同記事によるとオラチオ・パガーニ氏はモデナ・レッジョ・エミリア大学にて、名誉修士号を取得したばかり、とのこと。

一時は妻とともにテント生活も

オラチオ・パガーニ氏は1955年にアルゼンチンにて生を受け、幼少期よりスポーツカーに憧れており、カーデザイナーを志すことに。
その気持は一貫してブレず、大学でもデザインとエンジニアリングを学び、在学中にF2マシンを作ったり、FRPを「巻いて」ボディを作る技術を学んだとされ、このときに車の機構を考えたり、ボディを成形する技術を学んだようですね。

その後、アルゼンチン人の元F1ドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオに会うことが叶い、そこで頼んだのが「ランボルギーニに紹介して欲しい」。
ファン・マヌエル・ファンジオはランボルギーニへとコンタクトを取り、オラチオ・パガーニ氏はランボルギーニへと赴くものの、時は1982年でランボルギーニの経営状態は芳しくなく(1981年にランボルギーニの経営はイタリア政府管理からミムランに移っている。その後1986年にクライスラーが買収。もっとも不安定な時期でもあった)、ランボルギーニからの返事は「経営が安定するまで(雇用は)保留にさせてくれ」。

しかしそれでも溢れる情熱を抑えることができないオラチオ・パガーニ氏は何のあてもないまま妻とともにアルゼンチンからイタリアへと移住。
テント生活を続けながらランボルギーニへの入社を求めて日参し、ようやく入社が許された、とのこと。

なお、オフィシャルフォトだとパガーニ夫人は比較的豪華な装いでいることが多いようですが、まさかテント生活を経験していたとは、と驚かされます(今の姿からは想像できないような苦労を味わっている)。

ランボルギーニ入社後はすぐに頭角を現す

オラチオ・パガーニ氏は「ひとおり」自分でクルマを作ることを経験していたためにランボルギーニではすぐに活躍を見せることになり、LM002やカウンタック・アニバーサリー(1988)も同氏が手がけたクルマだそう。

そしてオラチオ・パガーニ氏が力を注いだのが複合素材。
つまりカーボンファイバーですが、これは1985年のカウンタック5000QVにて部分的に採用され、その後1988年のカウンタック・アニバーサリーで本格採用されています。

カウンタック後継となるディアブロについても同様で、多くのカーボン製パーツが用いられるようになり、この時期を境にランボルギーニは「カーボン偏重」の傾向を強めていることを考えると、ランボルギーニはそこでカーボンに可能性を見出したこと、そしてそのきっかけとなったのはオラチオ・パガーニ氏であったとも考えられますね。

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自身の会社「モデナデザイン」設立、そして「パガーニ・アウトモビリ」へ

オラチオ・パガーニ氏はとくにカーボンに対する情熱が高く、別のメディアではカーボン製モノコックシャシーを焼成するための釜を購入するよう(ランボルギーニの)上司に申請するも却下され(ランボルギーニもカーボンの重要性を理解しながら、あまりのコストに二の足を踏んだ)、そのためランボルギーニを退社して自身の会社「モデナデザイン」を設立した、とも。

ここではランボルギーニやフェラーリ、レーシングカー向けのパーツを委託にて生産していたとされ、その後に現在のパガーニ・アウトモビリを設立し、1999年に自身の名を冠した初のクルマ、「ゾンダ」を発売しています。

なお、ゾンダに搭載されるエンジンはメルセデス・ベンツ(AMG)製。
これは上述のファン・マヌエル・ファンジオ氏の推薦によるもの。
同氏はマセラティ、フェラーリ、メルセデス・ベンツのF1マシンを走らせていますが、いずれでもドライバーズ・チャンピオンを獲得しており、しかしその中でも最も優れていると判断したメルセデス製エンジンをオラチオ・パガーニ氏へと勧めたようですね。

ファン・マヌエル・ファンジオ氏とオラチオ・パガーニ氏との接点は1982年で、ゾンダ発売が1999年。
つまり、その間もずっと両者には交流があったということになり、オラチオ・パガーニ氏は「人との繋がり」をとても大事にする人物でもある、ということがわかります。

そしてオラチオ・パガーニ氏はカーボンに精通していたこともあり、ゾンダはまさに「カーボンづくし」。
しかもカーボンにチタン繊維を編み込んだ素材を開発するなど、他の追随を許さない姿勢を見せていることでも知られます。

現在多くの進行スーパーカーメーカーが誕生していますが、それらのほとんどは「既存技術を用いて、自分の考える夢のクルマを作った」と言えるものばかりで(よって”何か”に似ていることも)、しかしパガーニの場合は「既存技術に飽き足らず」「既存のいかなるクルマを越えようとした」ところが支持されている理由なのかもしれません。

ランボルギーニの場合は「フェラーリに満足できず」自身で会社を立ち上げて会社をつくり、ポルシェも同じく「自分の欲しいクルマがどこにもなかったから」自らクルマを作ろうと決意し、近代ではパガーニと並ぶ成功を収めているケーニグセグも「コンポーネント流用も考えたが、どれも自分の基準に満たなかったから結局自分で設計した」。
リマックも同様で、誰もがやろうとしなかったことを成し遂げ、名声と評価を勝ち取っています。

つまりは「何かベンチマークを定めたり」「誰かになろうとしたり」したわけではなく、いずれもただただ自身の考える究極に挑み、それを超えたときにのみ成功がもたらされた、そしてたゆまぬ進化と挑戦がその評価を確固たるものにする、とも捉えて良さそうですね。

そしていかなる状況下においても情熱を持ち続けること、それに従って行動することの重要性もわかります。

パガーニは人とのつながりを重視している

記事に話を戻すと、パガーニの成功の理由の一つに「少量生産にこだわる」ということを挙げています。
ただし希少価値を高めるというよりは、自分の満足できる品質でクルマを作ろうとすると、自ずと生産量が限定されるという側面を強調しており、オラチオ・パガーニ氏の言として「私は会社を大きくしようとはまったく考えていません。仲間と共に理想のクルマを作り続けることがすべてなのです」というコメントを引用。

さらにオラチオ・パガーニ氏が自ら「自分はパガーニのデザイナーでも、エンジニアでもあり、セールスマンである」という語ったことについても触れ、その「セールス」手腕についても紹介。
たとえばパガーニ本社に、カナダからの顧客がやって来る日にはカナダ国旗を掲げておくといった具合ですが、自身が辛酸をなめてきたからこそ、顧客がどうすれば自分の味方になってくれるのか、を心得ているのかもしれません。

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