| そもそも100%はこの世に存在せず、その基準は人によって変わるのだから、それを追求してもムダである |
であれば「80%」にとどめておき、100%を目指すための労力を別のことにかけたほうがずっといい
「自分の行動に求める完成度は80%まで」。
それがぼくの信念でもあるわけですが、その理由は「0から80%まで仕上げるのは容易だが、80%から100%にまで仕上げるのは容易ではないから」。
効率を考慮するならば、100%を目指すべきではない
つまり80%から100%に至るまでには”0から80%”にまで要する労力とは比較にならないほどのリソースを消耗するため、100%を目指すことは得策ではないと考えているわけですね。
そしてもうひとつぼくが考えるのが「80%の基準は多くの人にとってもだいたい同じであるが、100%の基準はそうではない」。
たとえば「80%くらいのイケメン」というと、そこに20%のバッファがあるために”自分にとって完璧なイケメンでなくとも”「まあまあイケメン」だという判断ができますが、「100%のイケメンかどうか」となると、自分の中での基準が一気に上がってしまい、「いや、これは100%とはいえないだろう・・・」となるんじゃないかと思います。
これは「80%くらいカッコいいと思えるクルマ」と「100%カッコいいクルマ」に当てはめることもでき、80%であれば多くの人が納得するものの、100%となると、人それぞれ求めるものが異なるために「そもそも100%が存在するのか」という疑問も出てくるわけですね。
さらに言うならば、時間をかけて100%を目指したとして、その長い道のりの間になんらかの時代の変化が生じていれば、100%の基準が変わってくることも考えられ、よってぼくにとって100%を目指すことはどだい不可能なことであり、同時に無意味であるとも考えています。※さらに自分の経験とともに、自分の中での100%も上書きされてゆく。そうでなければ成長しているといえない
であれば80%を目指してサクっと終わらせて別のことに取り掛かるか、それ以上を目指すのであれば、周囲の反応や状況を見ながら「適宜」100%に近づけるのがもっとも効率の良い方法であろうというのがぼくの信念でもありますが、基本的にぼくはずっとこのやり方で通しています。
これはけして「物事をいいかげんに捉えている」わけではなく、有限なリソースで最も多くの生産物を世に送り出すためのぼくのひとつの解であり、そしてそもそも人々は100%を求めているわけではなく、それが自分にとっての100%だと判断することもできないであろうという経験則に基づいています。
たとえば、クライアントからなんらかの作品を頼まれ、自分が100%だと思って仕上げたものを渡したとして、クライアントがそれを「うーんちょっと」と修正箇所を指摘し、クライアントの求める100%に仕上げたとして。
そしてその「クライアントが100%だと思う制作物」をクライアントのまたクライアントに見せたとしても「うーんちょっと」となってしまう確率は低くなく、そしてそうなれば修正に多大な時間がかかってしまうということに。
であれば最初からクライアントに「こういった懸念があるので、まずは80%くらいの仕上がりで作りますので、それをタタキに理想形を一緒に仕上げてゆきましょう」と説明して作業を進めるほうが、よほど早くものごとが進み、かつ生産的であるとも考えるわけですね(その過程ではクライアントの意向をより深く知ることができるので、次の仕事も早く進むようになる)。
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