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最近購入した本「わたしのげぼく」「タマ、帰っておいで」。猫の死について考える

最近購入した本「わたしのげぼく」「タマ、帰っておいで」

| 「タマ、帰っておいで(横尾忠則著)」は画集としても価値がある |

さて、最近買ったモノ。

今回は書籍「わたしのげぼく(上野そら:著、くまくら珠美:イラスト)」、そして「タマ、帰っておいで(横尾忠則著)」です。

ぼくは本が大好きで、できれば原っぱに寝っ転がって一日中本を読んで過ごしたいくらいなのですが、なかなか事情が許さず(許してくれず)、しかし時間を見つけてはチョコチョコと本を買って読んだりします。

いずれも猫の「死」にかかわるものだが

なお、今回購入した2冊についてはいずれも猫の死にかかわるもので、人によっては「触れたくない」内容かもしれません。

ただ、「動物の死」は、動物とともに暮らす人であれば逃げることはできず、むしろ正面から向き合う必要がある現実であるとも思います。

ぼくは人生のうち大半の時間を猫とともに過ごしていて、学生から社会人になり、独身寮に入った時ですら猫を手放さず(「夏への扉」の主人公が兵役中にも猫を手放さなかったように)、なんどかの転勤においても猫とともに日本中を渡り歩いたのですが、やはり時の流れには逆らうことができず、これまでには何度となく飼い猫との別れを経験しています。

猫とシャンプー

それでもボクは猫と暮らすことをやめない

もちろん飼い猫との別れはあまりに辛く、それは耐え難いものではあるものの、それでもぼくは猫を飼い続けています。

一度ペットとの死別を経験した人の中には「二度と動物を飼わない」と決める人も多いようで、しかしぼくはそういったタイプではなく、いかに辛い別れがやってこようとも、一緒にいることができる時間の大切さのほうを重要視し、やはり猫を飼うわけですね。

たしかに「死ぬのが可愛そうだから動物を飼わない」という人の気持もよく分かるものの、ぼくらが飼おうと飼うまいと動物は生まれて死んでゆくものであり、飼い主になればそれに直面するけれど、飼わなければ「死に直面せず(死ぬ姿を見ずに)に済む」というだけの話です。

たとえば捨て猫がいて、それをそのまま見捨てれば「死ぬ姿を見ずに済み」、悲しむことはないかもしれません。

しかしその捨て猫を迎え入れ、世話をすると、やがて十数年後には「死」という現実に直面するわけですね。

一緒に過ごした記憶までもが失われるわけではない

ただ、自分が悲しいかどうかは別として、野良猫の気持ちになって考えてみると、事情はちょっと違ってくるのかも。

野良猫は「誰か助けて・・・」とぼくらに訴えているかもしれず、そういった状況で見て見ぬ振りをすると野良猫は絶望してしまうかもしれませんし、失意のうちに(誰にも看取られることなく)死んでしまうかもしれません。

ですが、野良猫を保護して一緒に暮らすと、やがてやってくる別れまでは、お互いが優しい気持ちで過ごすことができると思うのですね。

そして、「死」を恐れるがあまり、そういった「一緒に過ごす貴重な時間」をも最初から拒否してしまうのは本末転倒であり、ぼくらにできることは、「たとえ死に捉えられるとしても、それまでは楽しく生きる」ことなのだと思います。

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ただしどうやっても、猫が死を迎えたときの寂しさを克服するのは容易ではなく、そこでぼくが死を受け入れやすくするために心がけているのが「後悔しない」ように行動すること。

猫と暮らしていると、どうしても色々と面倒なこともあったりしますが、死を正面から捉えるのと同様、そういった面倒ごとにも正面から向き合うことにしているわけですね。

たとえば、どんなに朝早くとも猫が起こしに来ればすぐに起きる、どんなに忙しくとも呼ばれたら必ず行く、どんなに面倒でも要求されたら一緒に遊ぶといったことで、もしそれをせず、しかし次の瞬間に猫が急死してしまったら後悔するにしきれないだろうと考えています。

死が猫を捉えることはどうしようもありませんが、それ以外のことについては自分の考え方一つでなんとかできることもあり、「今この瞬間に猫が死んだとしても、後悔することが無いよう」、なんとかできることはなんとかし、その一瞬を真剣に生きているわけですね(たぶん、猫のほうも、その一瞬をたいせつに生きているのだと思うし、ぼくはそれに応じたいと思う)。

よって、ぼくが長い経験の中で得た、猫の死とうまく付き合う方法は非常にシンプルです。

猫は死ぬ。必ず死ぬ。それは避けようがないし、ときには思いも寄らない形で死が訪れる。だからこそ、ぼくは、いつ別れが来てもやり残したことが無いよう、一瞬を全力で生きる。

そして、そういった日々を積み重ねることによって、猫が死を迎えたときにも、「今までありがとう。天国で元気に暮らせよ」といって笑って送り出せるようにしたいとも考えていますし、突然自分の人生が終了することになったとしても悔いが残らないように生きていたい、とも考えています。

なお、こういった「後悔しない生き方」はいつの間にかぼくの中に習慣として根付いているようで、(猫に対してのみではなく)人生における様々な事象に対して真剣に取り組むようになっていて、その意味でも「猫はいつも、人生において大事なことを教えてくれる」とも考えています。

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