■駄文(日々考えること)

車に撥ねられた猫を埋葬した件。なぜ多くの人は見て見ぬふりなのか

2017/10/16

たとえ死んでいるとしても、道端に倒れている動物を放っておくことはできない

 

しばらく前ですが、自動車にはねられて命を落とした猫さんを埋葬したことがあります。
顔見知りの猫さんではないのですが、たいそう太っていたので、どこかの飼い猫さんなのかもしれません(首輪はなし)。

ぼくが持ち上げたときはもう体が冷たくなっていたため、車にはねられ死んでしまったあと、しばらく道路脇へ放置されていたようです。
そこはそれほど人通りが少ないところではなく、そしてバス停が近いので、多くの人がその猫さんの死体を見て見ぬふりしていたことになります。

多くの人がそれを目にしているのに、みな知らんぷりだ

ぼくはそのときちょうど車でそこを通りがかり、倒れている猫さんに気づき、しかし反対車線を走行中だったので引き返してから車を停め、車からタオルを出して (ときどき、はねられた猫さんを保護したり移動させることがあるので、ぼくはいつも車にタオルやいらなくなったTシャツを積んでいる)猫さんを抱き上げタオルでくるんで車まで運んでゆくのですが、このとき周囲の人の視線が異常に自分へと集中していることに気づきます。
※場合によっては血や体液が当然ながらけっこう出ていたり、体が崩れていることがある

中には、ぼくが猫さんをはねて殺してしまったと思っている人もいるかもしれませんし、何やってんだあいつ、とただただ好奇の目を向けている人もいたかと思います。
ただ、そのときぼくは思ったのですね。

道端に倒れている猫は見て見ぬふりなのに、こうやって猫の死体を運んでいると注目の的か?見たけりゃどんだけでも見ろ。

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距離にして車まで100メートルほどは歩くことになるので、そのまま猫さんを運んで歩いていると、ある女性がぼくに声をかけてきて、その猫さんをどうするのか、と聞くわけです。
ぼくは、このまま道端に置いておくわけにはゆかないから埋葬してやるんだ、と答えます。
ぼくはそのときひどく怒っていたはずなので、その女性に対してもぶっきらぼうに答えたと記憶しており、それは反省しなくてはなりません。

すると女性は「自宅がすぐそこにあるので」とぼくを待たせてダンボールとビニールを持ってきてくれ、どのぼくらはダンボール箱に猫さんを丁重に寝かせたのですが、その女性と一緒に自宅から出てきた小さな子供の話によると、そのあたりで暮らしている野良猫さんではないかということ。
小さな子供が「死」という概念を理解していたのかはわからず、しかしその子供も、これをきっかけに命の大切さを理解してくれれば、そして人間がなにか動物に対してできることを考えてくれるようになれば、とぼくは思ったりしたわけですね。

そんなこともあって無事に埋葬を済ませたのですが、おそらくは、道端に横たわる猫さんを見て、ほとんどの人が「なんとかしてあげたい」と思ったのではないか、と考えるのです(やはりヒューマニティは信じたいとは思う)。
中には「(保健所が)早く処分してくれないかな」「だれかなんとかしろよ」という人や、そもそも「邪魔だ」と考えた人もいるかもしれません。

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ただ事実としては、あれだけ多くの人がいたのに、なにか行動を起こした人は一人もいなかった、ということです。ただの一人さえも。

だれもが心のなかで考えていたことを、誰ひとりとして、何も実行しなかった、ということです。

車にはねられた後、猫さんが即死であったのかどうかはわかりません。
ですが即死でないとしたら、多くの人が通る中、誰からも救いの手を差し伸べられることなく、猫さんは寂しく息を引き取ったことになります。

猫さんが人に対して助けを求めたかったかどうかは知る由がありませんが、もし誰かに助けてほしかったのだとしたら、この世の最後の記憶は「見捨てられた」というものになってしまいます。

車にはねられた猫さんを助けると呪われると言われるものの、「見捨てられた」と思わせたままあの世に送ることはできませんし、たとえ絶命していたとしても最後が「誰からも見て見ぬふりをされる」のはあんまりで、そう考えるととてもそのままにしておくことはできない、と考えるのです。

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