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ランボルギーニ・ミウラはなぜ人気にもかかわらず7年で生産が打ち切られたのか?そしてそのデザインルーツとは?知られざるミウラの謎に迫る

2020/07/15

| ランボルギーニ・ミウラ生産終了には謎が多い |

さて、東洋経済オンラインにて、「ランボルギーニ・ミウラがたった7年で生産中止になった理由」という記事が公開に。

ランボルギーニ・ミウラは1966年のジュネーブ・モーターショーにて発表され、試作車を含めると1966年から生産が開始され、1973年の生産終了までに合計750台が生産されています。

ランボルギーニはミウラの後にカウンタックを(1974年に)発売していますが、カウンタックとミウラはデザイン的には大きな方向性の相違があり、これらを「併売」することもできたはず。

かつ多くのバックオーダーを抱えていたほどの人気車種であったにもかかわらず、短期間で生産が終了された理由は何なのか、ということについて考察しています。

「ミウラが好ましくない客層の手に渡るようになった」

ミウラが短命に終わった理由として、記事では故パオロ・スタンツァーニ氏の言を紹介しており、簡単に言うと「ミウラの中古を、裏稼業(平たく言うとマフィア?)の人たちが購入して乗るようになり、そういったイメージを嫌って、ランボルギーニから旧来の顧客が離れてしまった」ため、そのイメージがこれ以上広がらないようにミウラの生産中止を(ランボルギーニ創始者である)フェルッチョ・ランボルギーニが決定した、というもの。

ちなみに大矢アキオ翻訳「ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ(フェルッチョ・ランボルギーニの息子、トニーノ・ランボルギーニが書いた本)」を読むと、当時ミウラはなかなか(人気だったため)手に入らず、しかしフェルッチョ・ランボルギーニはもちろんミウラにいつでも乗れる立場であったので、ミウラに乗って美女と一緒にドライブと洒落込もうとしていたところ、その女性から「(ランボルギーニの創業者だと明かしていなかったので)ミウラを盗んだ泥棒だと勘違いされた」ことがあった、という記述が見られます。

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この泥棒を「マフィア」だと解釈するならば、当時「ミウラに乗っている人=マフィア」という図式が世間にあったということも考えられ、これがミウラ生産終了の真の理由だと捉えて良いのかもしれません。

なお、「ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ」にはミウラ生産終了の理由については記載されておらず、記憶をたどると「ただ、フェルッチョ・ランボルギーニが”もういいだろう”と考え、独断にて生産終了を決めた」という記載があったようにも。

なぜ裏稼業の人々にミウラが渡ったのか

そこでなぜミウラが裏稼業の人々に乗られるようになったかですが、「本来ランボルギーニは、顧客のクルマを下取りし、中古車をちゃんと販売してゆく必要があった」ものの、当時はランボルギーニの販売網が不十分であり、よって市場で自由に転売が行われて結果的に「裏稼業の人々に渡った」のだそう。

それだけミウラの人気が高く、購入できたのは「お金を持っていた」裏稼業の人々になってしまったということになのだと思われ、それが上述の「思わしくない」状況を作り上げてしまったようですね。

なお、中古車市場でクルマを管理すること、価格を維持することはブランディング上非常に重要であり、これはフェラーリやレクサスが中古車市場をコントロールすることによって高いブランド価値を維持していることでも分かる通り。

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ただし中古車マーケットの維持には相当な労力とコストが掛かり、「放ったらかし」のメーカーが多いのもまた事実。

ちなみにアウディがブランド力を高めるために行ったのが「中古車市場での価格維持」だったといいますが、近年はランボルギーニも直接中古車市場の管理に乗り出しており、今以上に高いブランド価値を発揮することが期待されます。

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当時に話を戻すと、ミウラは「予想外のヒット」でもあり、それまでのランボルギーニでは考えられないような人気を得たために「販売網が追いつかなかった」のは想像に難くなく、やむをえないところもあったのでしょうね。

ランボルギーニ・ミウラは画期的なクルマ

なお、ランボルギーニ・ミウラは「大排気量エンジンをミッドに積む、はじめてのスポーツカー」。

つまり大排気量ミドシップスポーツの祖といえるクルマで、設計を行ったのはジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニ。

両者とも後にランボルギーニを辞すこととなりますが、ジャンパオロ・ダラーラはずっとランボルギーニとの縁を持ち続け、最近では「ウラカン」のレーシングカーである「ウラカン・スーパートロフェオ」等の開発にも携わっています(自社名義でもスーパースポーツを発売している)。

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一方のパオロ・スタンツァーニはその後「ブガッティEB110」の開発に携わっていて、イタリアンスーパーカーを語るには欠かせない人物に。

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リタイヤした後は小規模ホテル「ロカンダ・デル・トロ(雄牛の宿)」を経営してランボルギーニファンをもてなしていたものの、残念ながら2017年に亡くなっています(ホテルは娘さんが引き継いでいる)。

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なお、東洋経済では別の記事”ランボルギーニ「ミウラ」が今も絶賛される理由”を公開しており、そこにはミウラの開発秘話が紹介されているのですが、こにれよるとミウラのデザインにおけるインスピレーションは「アルファロメオ・カングーロ(AlfaRomeo Canguro)」である、とのこと。※恥ずかしながら、この話は知らなかった

1964年開催のパリ・モーターショーにて、パオロ・スタンツァーニとジャンパオロ・ダラーラの2人がこのクルマを目にし、「ランボルギーニの新型車はこういったデザインを持つべき」と考え、そこでカングーロをデザインしたベルトーネ(すでに破綻してしまったカロッツェリア)にデザインを依頼した、という経緯があるようです。

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なお、ここで補足が必要なのは、記事でも記載のある通り、カングーロのデザインは当時ベルトーネに在籍していたジョルジエット・ジウジアーロで、しかしランボルギーニがデザインを依頼したときにはジウジアーロは職を辞しており、よって代わりにカングーロ風のデザインを行ったのが(ベルトーネに在籍していた)マルチェロ・ガンディーニであった、とのこと。※ベルトーネにおけるマルチェロ・ガンディーニの記念すべきデザイン第一号がミウラ

ぼくは常々、同じガンディーニのデザインであるのに、なぜミウラだけが優雅な曲線で構成されたボディラインを持つのか(その他はカウンタックなど、直線的かつウェッジシェイプを持っていて、それがガンディーニの持ち味だと理解している)と考えていたのですが、これで長年の疑問が霧散した思いです(ありがとう東洋経済!)。

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参照:東洋経済

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