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スバルはかつて「新エンジンすら開発できない会社」だった!そんな中、名機EJ20を開発し、名車レガシィを世に送り出したのは一人の”熱血社長”

2020/01/15

| 当時、スバルは興銀の支配下にあり、同じく興銀が融資していた日産への配慮から「なにもさせてもらえなかった」 |

プレジデント・オンラインにて、「名車レガシィを生んだ銀行マン社長の大胆経営」という記事が掲載に。
この銀行マン社長というのは1985年の田島敏弘を指していますが、スバルはしばらく前から興銀の融資を受けており、興銀の支配力が強かった、といいます。

そして興銀は日産にも融資を行っていたので、興銀は「日産とスバルの両社を同時に管理していた」ということにもなり、興銀にとっていちばん大事なのは日産、そして次がスバルという順番(当時の日産は勢いがあり、数年後にはR32 GT-RやZ32 フェアレディZを発売している)。

興銀「スバルは潰れず、無理をせず、ただ金を返してくれればそれでいい」

そして興銀は融資額についてももちろんのこと、なにかに投資するにも日産を優先し、もしスバルが日産と競合するようなことをしようとしてもそれをさせず、もちろん融資も行わなかったとのこと。
興銀のスバルに対する扱いは「潰れない状態で、無理をせず、貸したお金を淡々と返してくれればそれでOK(ひどいな・・・)」というものだったそうで、うかつになにかチャレンジをして失敗でもしたら元も子もないという扱いだったそう。

そこで、そのスバルの方向性を大きく変えたのが田島敏弘氏ということになりますが、同氏はなにより「クルマが好きで、アグレッシブで、革新論者だった」。

それまでのスバルの経営陣は「興銀の方針だから・・・」と無難にことなかれ主義を貫いていたのに対し、同氏は「スバルはこんなことではダメだ。もっと積極的にやれ」と部下を叱咤激励し、実際に自分も積極的に動くことに。

その第一弾が(当時円高になり、輸出が難しくなったため、他社も一斉に行っていた)海外工場建設。
もちろん興銀がこのためのお金を出すはずはなく、「じゃあ他社と一緒にやればいいじゃない」ということで田島敏弘氏はいすゞと話をつけ、「共同にて」これを実現。

さらにはずっと「禁じられていた」新型エンジンの開発を許可し、栃木にもテストコースを作り、さらにWRCへの参戦を決めたのも同氏だったといい、興銀副頭取だったとは思えないほど「自動車メーカーの社長らしかった」ようですね。
なお、前ポルシェ・ジャパンの社長も銀行員出身だったとも報じられていて、ときに銀行には「熱い」カーガイが存在するようです。

そのほか同氏のエピソードとしては、社長室のドアを開けっ放しにて「誰でもオレのところに来い」というスタンスを貫いたこと、それまでスバルの歴代社長は日産プレジデントに乗っていたものの、「自社のクルマに乗らないのはおかしい」という理由からレオーネを愛用したことなど。

ちなみに前者については「ヒューレット・パッカード」がそうだったと言われ、数年前にヒューレット・パッカードの本社(シリコンバレー)を訪れた際、社長室のドアが開けっ放しになっていて、カーペットやドアのラッチに「まったくドアを締めた形跡がない(社長室のドアは社屋建設以来閉じられたことがない)」と説明されたことを思い出します。

方針一点、スバルは大きな転機を迎えることに

それはともかくとして、スバル社員としては「アメリカ進出」「テストコース建設」「WRC参戦」「新エンジン開発」ということでテンションが上り、社内の雰囲気は「ガラリと変わった」とも。
これはおそらく、豊田章男社長就任以後のトヨタ自動車とよく似ているんじゃないかと考えていて、自動車メーカーのような大きな会社であっても、社長が変われば会社も変わる、という好例かもしれません。

とくに新型エンジン開発については、当時自動車業界全体で技術が大きく進歩し、車体設計技術も向上したものの、スバルでは車体を新しくしても「それまでのエンジンをボアアップなどでごまかし、なんとかその場をしのいできた」状態。
その間にもトヨタや日産、ホンダなどはどんどんニューエンジンを投入し、このままではどんどん他社と差がつくと考えた田島敏弘氏は「車体が新しくなってもエンジンが同じでは意味がない。やはり新型エンジンを開発するしかない」という決断を下したのだそう。

なお、時期的なものを考えると、この新型エンジンは、1989年に発売された初代レガシィに搭載されたEJ20で間違いなさそうですね(そして、そのEJ20はその役目を終了し、2019年に生産終了)。

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1989年、「レガシィ」が発売される

そして1989年にスバルにとって「運命を決めた」レガシィが発売されることに。
1989年というと日産R32 GT-R、Z32フェアレディZ、初代マツダ・ロードスター、初代トヨタ・セルシオなどが登場した「日本の自動車産業における黄金期」。

その中でもレガシィは「性能の割に割安な価格設定」に加えて「オシャレなワゴン」という新しいジャンルを切り開き、10万キロ走行テスト中の平均速度223.345km/hというインパクトのある世界公式記録、上位グレードにはビルシュタインのサスペンションを装着すると同時にリアゲートにビルシュタインのバッジを装着するといった「マニア受けする」小技も奏功して大きなヒットに。

初代レガシィ(BC/BF系)はスバルにとって1966年以降「はじめて」完全新設計となるシャシー、そして同じく新設計のエンジンを使用したクルマであり、まさにスバルの命運をかけたクルマ。
そしてこれがヒットしたことで、田島敏弘氏は「みごと賭けに勝った」ということになりそうです。

ちなみにレガシィが登場した時期は「バブル景気」まっただなかで、これに乗ってレガシィが売れたとも考えられますが、当時のスバルは「レガシィを除くと軽自動車しか無く」、よってレガシィを発売していなければ完全に「バブルに乗り遅れていた」というか「乗れなかった」ということもあり、いい時期にいいクルマを発売したということもわかります。

ただ、残念なのは、こういった改革を推し進め、現代まで続くスバル成功の方程式を作った田島敏弘氏が志半ばで倒れてしまったこと。
1995年に病で倒れたと報じられていますが、新たな市場を目指し、スバルという会社を変革し、スバルのクルマを変え、そしてスバルに対する世の中の認識すらも新たにさせてまった男、田島敏弘という名をぼくはけして忘れまい、と思います。

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VIA:President Online

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