「人々はテクノロジーの使い道を限定している。生活を便利にしてくれるものだと、そう考えている。だが、一部の限られた人たちは違う。限界を超えるためにテクノロジーを駆使し、人類未踏の領域に挑もうとする」。
これは映画「インターステラー」公開時に監督のクリストファー・ノーラン氏がインタビューに対して語った内容です。
そして、「この映画は、そういった限界に挑もうとする人々を描いた映画だ」とも。
今、ぼくらの目の前にあるものをどうとらえるのか、というのは人によって異なります。
与えられたもので満足するのか、与えられたものでさらに何かを創りだそうとするのか。
極端な話、レゴを与えられて何を創りだすのか(もしくは創りださないのか)は人によって異なるわけですが、それは人による「差」と捉えることができますね。
この「差」を後天的要素で補うことは難しいと考えており(これを”動物と人間”との差に置き換えると、「壁」が存在することがわかると思う)、それが「普通の人々」と「限られた人々」を隔てるものなのかもしれません。
なおインターステラーはハードSFに属する分野で、それまでこのジャンルにおけるぼくのお気に入りは「レッド・プラネット」と「月に囚われた男」なのですが、インターステラーはこれらを遥かに超えていると認識しています。
派手なアクションもバトルも無いですが、その前の年に公開された「ゼロ・グラビティ」を一気に過去のものにしてしまったほどのインパクトがあります。
一番の見せ場としては、母船エンデュランス号とランダー1とのドッキングだと思いますが(”ミラーの星”の津波とで意見の分かれるところ)、これはSF映画史に残るシーンだと考えており、これはなかなかスペクタクル。
ほかの映画だと「2001年宇宙の旅」の”怖いよデイヴ”も記憶に残るところですね。
CASE(ロボット)の「it's impossible」という意見に対し、パイロットであるクーパーの「No, but it's necessary」という諦めない姿勢、そしてロボットというテクノロジーを駆使してのドッキングはまさに「限界を超えて挑む」というクリストファー・ノーラン監督が表現したかったところ(の一部)なのかもしれません。