| 2023年からはV12といえど「ハイブリッド化」されたモデルの生産が始まる |
一つの時代が終わり、またひとつの時代が幕を開ける
さて、2022年はランボルギーニにとって「V12エンジンのみで走るクルマを生産する最後の年」となりますが、そこでV12ミドシップスーパーカーの祖であるランボルギーニ・ミウラを振り返るコンテンツを公開。
ランボルギーニ・ミウラは1966年に発表されていますが、当時これは「世界で初の大排気量ミドシップスポーツ」だったといい、その後瞬く間に伝説とまで言える地位に上り詰めています。
なお、ランボルギーニは2023年に「最初のハイブリッドモデルを生産する」とも述べているので、つまりアヴェンタドール後継モデルは「2023年から納車開始」ということになりますね。
ランボルギーニ・ミウラは2名の天才によって作られた
自動車メーカーとしての「アウトモビリ・ランボルギーニ」は1963年に創業していますが、最初の市販車である「350GT」は1964年に発表。
これはフロントにV12エンジンを積むグランドツアラーで、全く無名だったランボルギーニの名を世に知らしめるに十分な完成度を持っていたものの、創業者であるフェルッチョ・ランボルギーニはこのチャレンジに満足しつつも「もっと素晴らしいクルマ」を作ることを夢見ていたといいます。
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そしてその夢が形となったのが「ミウラ」であり、このミウラを実現したのは当時まだ若かりしジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニ。
この両名はランボルギーニのエンジニアとして働いていて、とくにパオロ・スタンツァーニはフェルッチョ・ランボルギーニが雇った最初の一人であるといい、モデナ大学を卒業してすぐにランボルギーニへと入社しています。
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なお、ジャンパオロ・ダラーラはその後独立してレーシングカーコンストラクターを設立し、今でもランボルギーニのレーシングカー製作を手掛けるなど良好な関係を築いており、パオロ・スタンツァーニはその後カウンタック、エスパーダ、ウラッコの開発にも携わり(ウラッコが一番のお気に入りだったという)、しかしランボルギーニが(1973年に)二番目のオーナーとなるロゼッティ・マイヤーへ売却され、そこでの方針が肌に合わなかったのか、1974年にランボルギーニを退社することに。
その後はかのブガッティEB110の設計にも関わっていますが、こちらも現代にまで名を残す偉大な作品となっています。
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なお、ものの本によると、ミウラはパオロ・スタンツァーニの発案だという記載も見られ、その企画をフェルッチョ・ランボルギーニに示したところ、「まあやってみろ。無理だと思うけどな」と言われつつプロジェクトを任されたといい(”無理だと思うけどな”というのは、フェルッチョ・ランボルギーニなりの期待とハッパが混じった愛情表現だったようだ)、そこでパオロ・スタンツァーニとジャンパオロ・ダラーラは4リッター60度V12エンジンにウェーバー製40 IDL 3Lキャブレターを4個装着してP400では350馬力、さらにP400S(370馬力)、P400SV(385馬力)という当時最高レベルの馬力を発生させることに成功しています。
ボディデザインはカロッツェリア・ベルトーネ(に在籍していたマルチェロ・ガンディーニ)が起用され、フェルッチョ・ランボルギーニがミウラを見た瞬間「この素晴らしいクルマは、私たちが伝説となる地位を与えてくれるだろう」とコメントしたといい、実際にミウラは発売されるやいなや大人気となり、ランボルギーニに空前の利益をもたらすこととなったわけですね。
当初は「3年で50台売れればいい」という控えめな販売予測だったものの、実際には1966年から1973年までの7年間で763台を販売することとなっており、しかし1973年に販売が終了したのは、フェルッチョ・ランボルギーニが生産終了を宣言したためだとされています(1973年時でも相当な人気があり、しかしマフィアが多く”乗り回して”いたことからランボルギーニに対する世間のイメージの悪化を恐れ、苦渋の決断を行ったのだという説がある)。
参考までにですが、東洋経済によると、ミウラのデザインにおけるインスピレーションは「アルファロメオ・カングーロ(AlfaRomeo Canguro)」。
1964年開催のパリ・モーターショーにて、パオロ・スタンツァーニとジャンパオロ・ダラーラの2人がこのクルマを目にし、「ランボルギーニの新型車はこういったデザインを持つべき」と考え、そこでカングーロをデザインしたベルトーネにデザインを依頼した、という経緯があるようです。
実際のところミウラ以前にはランボルギーニとベルトーネとの接点はなく、この話はけっこう信憑性が高いかもしれません。
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ランボルギーニ・ミウラは映画界、著名人に愛される
そしてランボルギーニ・ミウラは発表されると同時に映画監督たちの間で最も人気のある車となり、なんとミウラは合計で43本もの映画に登場。
その多くが”主役級”の扱いであったことも特筆すべきで、もっとも有名なのは、1969年の「イタリアン・ジョブ(ミニミニ大作戦)」であるのは異論がなく、マット・モンローが「On Days Like These」を歌う中、P400ミウラを駆るロッサノ・ブラッツィが3分以上にわたってオープニングに登場しています。
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さらにミウラは何十冊もの自動車雑誌の表紙を飾っており、国際的な記事に初めて登場したのは1966年11月だとされ、それはベルギーのレーシングドライバーからジャーナリストへ転向したポール・フレールが、週刊誌『オートカー』に寄稿したものだといいます。※日本でも多くのポール・フレールの著書が翻訳されており、中でも「はしる まがる とまる」は非常に有名で、これは読んでおくべき一冊でもある
なお、最も有名な記事は、イギリスのジャーナリスト、レナード・LJK・セットライトがイギリスの月刊誌「CAR」に寄稿したものと言われていて、これはP400ミウラを駆り、(ランボルギーニ本社のある)サンタアガタ・ボロニェーゼからロンドンまでの旅を2部構成で紹介した内容なのだそう。
もちろんジャーナリスト以外、たとえば多くのミュージシャンにもミウラが愛されたこともよく知られ、リトル・トニーとロッド・スチュワートは2台以上所有し、エディ・ヴァン・ヘイレンは30年以上所有し続け、ジャミロクワイのフロントマンであるジェイ・ケイは現在も所有している、とのこと。
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さらにフランク・シナトラが「誰かになりたいと思ったらフェラーリを買うといい。だがランボルギーニを買うのは”誰か”である場合だ」と語ったことも有名ですね。
そのほかにも俳優のピーター・セラーズ、モデルのツイッギー、歌手のジョニー・ハリデイやエルトン・ジョン、オペラ歌手のグレース・バンブリー、ジャズミュージシャンのマイルス・デイビス、レースドライバーのジャン・ピエール・ベルトワーズ、さらにはイランの王もかつてミウラを所有しており、その中にはたった4台しか作られなかったミウラSVJが含まれていた、とも言われます。
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参照:Lamborghini