
| エンツォ・フェラーリの生涯とフェラーリ創業の歴史 |
フェラーリの伝説はいかにして形作られたのか
世界的スーパーカーブランド「フェラーリ」。その礎を築いたのが、創業者エンツォ・フェラーリ(Enzo Ferrari)です。
正直なところエンツォ・フェラーリについては「よく知られているようで」知られていないことも多く、さらには”意図的に作られた”物語もあるとされ、よくわからない部分があるのもまた事実。
おそらくその人物像、そして経歴をもっとも的確に捉えているのはブロック・イェイツ (Brock Yates) の著書、『エンツォ・フェラーリ F1の帝王と呼ばれた男 : 跳ね馬の肖像』 だとされており、ここではその書籍を参考に、様々な情報を織り交ぜ、エンツォ・フェラーリの生涯について時系列順にまとめてみたいと思います。
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【フェラーリの哲学】なぜ“需要より1台少なく”しか作らないのか?エンツォ・フェラーリの信念と成功の理由
はじめに:伝説の言葉「フェラーリは常に需要より1台少なく作る」 フェラーリは常に「ブランド価値の最大化」を優先させてきた エンツォ・フェラーリは数々の名言を残していますが、最も有名なのはこの一言かもし ...
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1. エンツォ・フェラーリの誕生と少年時代(1898〜1919)
- 1898年2月20日、エンツォはイタリア・モデナに誕生
- 実際に生まれたのは2月18日であるが、豪雪のために出生届を出せず、届け出られたのが2月20日だとされる
- 実際に生まれたのは2月18日であるが、豪雪のために出生届を出せず、届け出られたのが2月20日だとされる
- 幼い頃から自動車に魅了され、1908年には家族とともに観戦した「カップ・フローリオ」に強く感動し、将来の夢を抱く
- 本人は「裕福ではなく、しかし苦労もなかった」と幼少期を振り返ったそうだが、父親は機械加工業を営んでおり、当時まだ珍しかった自動車が自宅に数台あるなど、かなり裕福であったようだ
- イタリア語で「鉄」は「Ferro」と記し、「Ferarri」という名字はここから来ているとする文献もある
- 第一次世界大戦の影響: 1916年、父と兄が戦争(流感)で死去。自身も戦争に従軍し、1918年に帰還する
- 戦時中に負傷あるいは病気にかかり、生死の間をさまようが、肉親の死去、自身の生命の危機を経て独特の死に対する考えを持つようになったと言われる
- 戦時中には「工兵」として軍隊に従事
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「北の教皇」とまで呼ばれ、その権力を絶対的なものとしたエンツォ・フェラーリ。どのような名言を残し、どのような哲学を持っていたのか?
| エンツォ・フェラーリは「時代の50年以上先を行く」ビジネスマンであった | その存在は「神」にも等しく、今もその教えが根付いている さて、フェラーリ創業者であるエンツォ・フェラーリはまことに不思議 ...
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2. レーサーとしての活動とアルファ・ロメオ時代(1920〜1929)
- 戦後の1919年、CMN(Construzioni Meccaniche Nazionali)でレーサーとしてデビュー
- 当時、レーシングカーは非常に高価な工業製品であったが、なぜエンツォ・フェラーリがレーシングカーを入手できたかは謎とされる
- 当時、レーシングカーは非常に高価な工業製品であったが、なぜエンツォ・フェラーリがレーシングカーを入手できたかは謎とされる
- 工兵としての経験を活かし、フィアットに職を求めるも採用を断られ、雪の降るトリノの公園のベンチで泣いた」という言葉を残す(雪ではなく「雨」という記述もある)
- この挫折が「自身のチーム、自身の会社」を作るという原動力になったとされる
- 映画「フェラーリ」の原作はイェイツの著書であるが、劇中には「フィアットに就職を断られたこと」を根に持つ描写がある
- 1920年にはアルファ・ロメオと契約し、レーサー・営業担当者として活躍
- ただし、エンツォ自身は「一流レーサー」というよりも、むしろチーム運営・技術面でのマネジメント能力を発揮
- フィアットから、優れた技術者であるヴィットリオ・ヤーノをアルファロメオに引き抜くことでフィアットに対する復讐を果たしたとされる
- フィアットから、優れた技術者であるヴィットリオ・ヤーノをアルファロメオに引き抜くことでフィアットに対する復讐を果たしたとされる
- 1923年:第一次世界大戦のイタリア空軍のエースパイロット、フランチェスコ・バラッカ伯爵の母パオリーナ・バラッカ伯爵夫人から「跳ね馬(カヴァリーノ・ランパンテ)」のエンブレムを使うことを勧められる(サヴィオ・サーキットで初優勝を飾った際、伯爵夫人がエンツォ・フェラーリの果敢な走りに自身の息子の姿を重ねたためだと言われる)
Image:Ferrari
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フェラーリが公式にそのエンブレム誕生を語る。エンツォとミラノの芸術家によって作られ、文字の上で「馬が跳ねているように」というのはエンツォの指示だった
| フェラーリが公式にエンブレムについて語るのはおそらくこれが初だと思われる | フェラーリの「馬」は現在に至るまでに「スリム」になっていた さて、フェラーリは自動車業界でもっとも印象的なエンブレムを ...
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3. スクーデリア・フェラーリ設立と独立(1929〜1939)
- 1929年:モデナにて「スクーデリア・フェラーリ」を設立
- アルファロメオがモータースポーツ活動を縮小させつつあったためにアルファ・ロメオのセミワークスチームとして設立される
- アルファロメオの車両を使用した富裕層のレース活動を支援
- 1931年:1月29日、エンツォ・フェラーリに長男、アルフレード(ディーノ)誕生
- フェラーリ家は代々、長男に「アルフレード」と命名。エンツォ・フェラーリの兄もアルフレードであった
- この頃からエンツォ・フェラーリはレーシングドライバーとしてではなく、マネジメントとしてチームを牽引するように。一説では「息子が生まれ、自身の命を大事にするようになった」と言われる
- 1932年:ここではじめて、7月9日に開催されたスパ24時間レースにて、跳ね馬のエンブレムがスクーデリア・フェラーリのマシンに装着される
- 伯爵夫人から跳ね馬を賜った9年後である
- 自身で跳ね馬をアレンジしエンブレムの原型を考え、芸術家とともに考案したのが現在のエンブレム
- 1938年:アルファロメオがレース部門を直接運営する方針に転換したため、エンツォは同社を離脱
- 1939年:アルファ・ロメオとの契約解除とともに「Auto Avio Costruzioni(AAC)」を創業
- ただしアルファロメオとの契約により、「フェラーリ」の名を使うことを4年間禁止される
- 同年、第二次世界大戦が勃発(~1945年)
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なぜフェラーリはエンツォ・フェラーリ存命中には話題にあげることすらできなかった「4ドア」を発売したのか?プロサングエの開発秘話が公開される
| 一方、エンツォ・フェラーリは「4シーターのファン」であった | フェラーリはプロサングエをけして「SUV」とは呼んでいない さて、フェラーリの前CEO、セルジオ・マルキオンネ氏は「もしフェラーリが ...
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4. フェラーリ誕生と初の自社開発車(1940〜1947)
- 1940年:初の自社製車「Tipo 815」を製作。フェラーリの名は冠されていないが、実質的にエンツォ・フェラーリが手掛けた第一号車。当時はまだV12エンジンの構造はない
- 8気筒1.5リッターエンジンを搭載(よって「815」)、生産台数わずか2台(シャシー番号815/020、815/021)、最高出力75馬力、最高速度は170km/h、車体はカロッツェリア・トゥーリング製
- Tipo 815は同年のミッレミリアに参戦するもエンジントラブルでリタイアとなるが、エンツォ・フェラーリの「クルマづくり」の情熱を実現させた「フェラーリの礎」でもある
- 第二次世界大戦中は軍需産業に従事し、自動車生産のノウハウを蓄積
- 1943年:空襲にてモデナの工場が焼けたため、マラネッロに工場を移転(現在の本社所在地)
- 1945年:5月22日、婚外子であるピエロ・フェラーリ(ピエロ・ラルディ・フェラーリ)誕生
- 1947年:フェラーリブランド初の市販車「125 S」を完成
- フェラーリ初のV12エンジンを搭載し、以後のフェラーリ哲学を体現する存在に
- 1.5L V12エンジンを搭載し、レースでも活躍
- V12エンジンの設計はジョアッキーノ・コロンボで、エンツォ・フェラーリとの話し合いの中でV12エンジンに関しての合意が発生
- この年をもって「フェラーリ社」(Auto Avio Costruzioni Ferrari)が正式に誕生し、この年が「創業年」とされる※ただしスクーデリア・フェラーリの誕生は1929年である
- 1949年:創業2年目にして「ル・マン24時間レース初勝利。当時ル・マンは世界で最も知られたレースの一つであり、これに勝利することで「フェラーリ」の名が世界に知られるように(よってル・マン24時間レースはフェラール躍進のきっかけとなった重要なレースである)
5. モータースポーツでの飛躍とブランドの確立(1950〜1969)
- 1950年:1950年、F1世界選手権が始まると、スクーデリア・フェラーリは初年度から参戦
- 現在に至るまで、欠かさずシーズン参戦を続ける唯一のコンストラクターである※同一シーズン内にて、参戦しなかったレースもある
- 現在に至るまで、欠かさずシーズン参戦を続ける唯一のコンストラクターである※同一シーズン内にて、参戦しなかったレースもある
- 1951年:1951年に初勝利(シルバーストン)を飾り、以降F1の中心的なチームに成長
- 1951年:ピニンファリーナとの協業が始まる
- エンツォ・フェラーリとピニンファリーナ創業者、バッティスタ・ピニンファリーナとが個人的に出会ったことから自動車史に残る関係性が生まれたと言われる
- エンツォ・フェラーリとピニンファリーナ創業者、バッティスタ・ピニンファリーナとが個人的に出会ったことから自動車史に残る関係性が生まれたと言われる
- 1952・1953年:アルベルト・アスカリがドライバーズタイトルを獲得
- この頃からフェラーリは「勝つためのクルマ作り」を通じて、ブランド価値を急速に高めてゆく
- この頃からフェラーリは「勝つためのクルマ作り」を通じて、ブランド価値を急速に高めてゆく
- 1956年:6月30日、アルフレード・フェラーリ死去(24際)
- 死因につき、筋ジストロフィー説が一般的であるが、看護記録を見るに、腎臓病であったという説もある(梅毒説もある)
- 死因につき、筋ジストロフィー説が一般的であるが、看護記録を見るに、腎臓病であったという説もある(梅毒説もある)
- 1961年:フェラーリの有名な社内紛争「宮廷の反乱(Palace Revolt)」が10月に起こる
- エンツォ・フェラーリの妻であるラウラ・フェラーリと、フェラーリの主要な幹部やエンジニアたち(主任エンジニアのカルロ・キティ、セールス・マネージャーのジローラモ・ガルディーニ、レーシング・ディレクターのロモーロ・タヴォーニ、主任設計者のジオット・ビッザリーニなど)との間に生じた対立が原因※ラウラ・フェラーリがモータースポーツ活動に口を出しすぎたことが原因だとされる
- 結果として、これらの幹部やエンジニアの多くがフェラーリを去り、ATS(アウトモビリ・トゥーリズモ・エ・スポルト)というライバル会社を設立することに
- ジオット・ビッザリーニはランボルギーニのV12エンジンを設計するなどの活躍を見せ、結果的にエンツォ・フェラーリは社外に大量のライバルを作ってしまう
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フェラーリ250GTO生みの親、そしてランボルギーニを支えたV12エンジン設計者、ジオット・ビッザリーニが96歳で亡くなる。この人なしにスーパーカーの時代はやってこなかった
| 類まれなる才能、そして情熱を持った人物がまた一人失われる | とくにランボルギーニ最初のモデル、350GTからムルシエラゴにまで積まれるV12エンジンを設計した功績は大きい さて、ランボルギーニに ...
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6. フィアットとの資本提携(1969~1970年代)
- 1960年代はじめには資金難に陥り、フォードとの提携を模索するも、契約書締結直前になってこれを破棄(モータースポーツに決定権がフォードに移ることに激怒したとされる。このあたりの経緯は映画「フォード VS フェラーリ」にて描かれる)
- 1967年:「ディーノ」ブランド最初のモデルとしてディーノ206GTが発売
- ディーノブランドは1976年のディーノ 208GT/4をもって終了
- ディーノブランドは1976年のディーノ 208GT/4をもって終了
- 1969年:資金不足を補うため、エンツォはフィアットに株式の50%を売却
- これにより経営基盤が安定し、市販車とレース活動の両立が可能に
- エンツォはレース部門における実質的な支配権を維持
- 1970–80年代、フェラーリはF1で「ニキ・ラウダ」「ジル・ヴィルヌーヴ」などの伝説的ドライバーを擁し、技術面でも革新を続けトップランナーであり続ける
7. エンツォ・フェラーリの晩年と死(1980〜1990年代)
- 1980年代には「288 GTO」「F40」など象徴的モデルが誕生
- 1991年、エンツォ・フェラーリは社長の座を退き、ルカ・ディ・モンテゼーモロが社長に
- 1996年、ミハエル・シューマッハがスクーデリア・フェラーリに加入
- 当時のフェラーリは低迷期(1980年代~1990年代半ば)にあり、コンストラクターズタイトルから遠ざかっていた
- 契約時の年俸は約6000万ドル(当時としては破格)であった
- 1988年8月14日、エンツォ・フェラーリ死去。享年90歳
- F40は生前最後に彼が認可したモデルに
- 死の直前までフィオラノ・サーキットの横に構えた家でレーシングカーを眺めながら過ごす
- 遺言によってエンツォ・フェラーリの保有していた「発行済み株式数40%」はフィアット(アニエッリ家)に、10%はピエロ・フェラーリに
8. フェラーリの上場と現代(2015〜)
- 2014年:フィアット・クライスラー(FCA)がフェラーリを分離
- 2015年10月:ニューヨーク証券取引所(NYSE)に上場(ティッカー:RACE)
- 株式の10%が公開され、残りの大部分はFCA株主に配分される
- ピエロ・フェラーリは持ち株10%を維持
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フェラーリが「エンツォ・フェラーリ博物館」にて”スーパーカー”の展示を開始。ちなみにフェラーリが自社の製品でスーパーカーと呼ぶのは6台のみ
Image:Ferrari | フェラーリにとってのスーパーカーは「(288)GTO」「F40」「F50」「エンツォフェラーリ」「ラフェラーリ」「F80」のみである | これらに加え、派生したレーシン ...
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9. 財政面から見るフェラーリ~フェラーリはなぜ株式を公開したのか?
フェラーリの歴史を語る上で外せないのが「ミハエル・シューマッハが築いた黄金時代」そして「フェラーリの株式公開」。
ここでは後者について説明してゆきたいと思いますが、フェラーリの株式公開は「数年レベル」で計画されたものではなく「数十年レベル」で準備されたものだと考えられています。
まず、フェラーリは1960年代にフィアットの資本注入を受けていますが、このときからフィアットはフェラーリを「育成」しはじめたと考えてよく、「世界でもっとも情熱的ではあるものの、時に財政的に不安定であった」フェラーリに資金を投じることで「その魂を失うことなく、堅牢で世界的に認知される高級ブランドへと進化させる(そして売却する)」ことにしたのだというのが通説です。
そのためフィアットは「カネは出すが経営には口出しをせず」すべての決定権をエンツォ・フェラーリに残したわけですが、フェラーリは豊富な資金と「フィアット」という背景をもって現代的な製造プロセス、サプライチェーンの効率性、そして広範な企業構造を獲得することに。※これらは、小規模な家族経営の企業では単独で実施が困難であった可能性のある要素である
そしてこのフィアット傘下での期間は、フェラーリにとって服従ではなく、むしろ重要な育成・成熟段階でもあり、これによってフェラーリは事業運営をプロフェッショナル化し、製品ラインを拡大し、グローバルな流通ネットワークを強化することができたわけですね。
これら全てが、フィアットの財政的支援と戦略的監督の恩恵を受けながら進められ、この企業の成熟は、最終的に単独で上場企業となるための不可欠な前提条件であったと考えられます。
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フェラーリを設立し確固たるDNAを確立した男、エンツォ・フェラーリはどこでモータースポーツと出会い、どのようにして情熱を傾けるようになったのか【動画】
Ferrari / Youtube | エンツォ・フェラーリは常に技術の限界を追求し、それによって人間の能力を拡張しようとすることをやめなかった | そこには生い立ち、自身の興味、先見性など様々な要素 ...
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そして「極めつけ」が1991年からフェラーリCEOの座についたルカ・ディ・モンテゼーモロ。
そのリーダーシップは、IPO前の時代におけるフェラーリの財務戦略とブランド戦略を形成する上で決定的な役割を果たし、彼の在任期間(1991年から2014年)は、セルジオ・マルキオンネが後に会社をスピンオフするという決定を下すための舞台を効果的に整えることとなっています。
実際のところ、モンテゼーモロがブランド価値と収益性に焦点を当てたことで、フェラーリは公開市場にとって非常に魅力的な資産となったことが知られていますが、その戦略の基礎としては「生産を制限し、排他性を強調すること」。
これが高い利益率と堅調な財務実績に直接貢献してフェラーリを魅力的なIPO候補へと押し上げることとなり、これもまた「長い時間をかけて形成された」要素です。
つまりフィアットは計画的にフェラーリを育成し、ルカ・ディ・モンテゼーモロをフェラーリに送り込むことで投資家にとって魅力的な、そして排他的な価値を持つ企業へと変貌させ、つまりは「すべての環境を整える」ことに成功しています。
したがって、IPOは突然の決定ではなく、数十年にわたる戦略的なブランド構築と財務規律の集大成であったと言って良いかと思います。
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エンツォ・フェラーリの「工場は、人、機械、建物でできている。フェラーリは、なによりも人でできている」の精神はいまだ健在。フェラーリがホワイト企業に認定
| 創業当時のフェラーリはとにかく人材の確保に苦労しており、エンツォ・フェラーリは自ら職業訓練校を作ったほど | エンツォ・フェラーリは人に厳しかったのか優しかったのか判断がつきかねる さて、フェラー ...
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フェラーリIPOへの道:財務再編と独立への準備
2014年、FCAがフェラーリのIPOを最終的に決定した背景には、主にFCAが抱える多額の負債を削減し、中核となる自動車ブランドのための野心的な5か年投資計画に資金を供給するという喫緊の必要性からですが、FCAとフェラーリの双方のCEOを務めていたセルジオ・マルキオンネは、この戦略的決定において極めて重要な役割を担っています。
彼は、フェラーリの真の価値が、より大きな自動車コングロマリットの中に埋もれているために過小評価されていると確信しており、その価値を解放することを目指し、IPO、そしてその先にあるスピンオフは、フェラーリが高級企業として独立して評価されることを可能にする方法として捉えていたのですが、実際にIPOに至るまでの数年間、特に2013年から2015年にかけて、フェラーリは一貫して堅調な財務実績を維持し、収益と利益の両方で力強い成長を示したという事実も。
これは、同社の財務健全性、運営効率、そして投資家にとっての魅力を明確に示すもので、投資家の興味を強く惹きつけるのに十分な数字であったと記憶しています(さらにフェラーリは、自社を自動車メーカーとしてではなく、代替性のないラグジュリーブランドとしての位置づけを行い、それに成功していた)。
よってこのIPOは、FCAによる単なる事業売却ではなく、洗練された財務工学の動きであったと捉えるべきで、IPO段階ではフェラーリ株式の80%を既存のFCA株主に分配することにより、マルキオンネは、彼らに高価値の資産を効果的に提供することに。
同時に、IPOによる10%の(一般市場への)売却は即座の資本(あるいは現金)をフィアットにもたらし、ピエロ・フェラーリによる10%の保有は、創業家との重要なつながりとブランドの真正性を維持することにも役立っています。※IPO当初、フェラーリは発行済株式の10%しか市場に流通させていない
この多角的なアプローチは、価値の最大化とステークホルダーの満足度を両立させた「妙手」だと捉えられており、もし唯一の目的が負債削減であったなら、FCAはIPOでより大きな比率のフェラーリ式を直接市場へと売却することも可能であったわけですね。
その意味でも「フェラーリは株式市場においても希少性を重視した」とも考えられ、段階的に株式を開放したことを考慮しても「FCAによるフェラーリのIPOは極めて精密に練られ、かつ長い時間をかけて成功に導かれた」稀有な例と言えるのかもしれません。
主要なフェラーリの所有権と経営陣の変遷
年/期間 | 主要所有者 | 所有比率 | 主要経営陣 | 重要な出来事/影響 |
1929年 | エンツォ・フェラーリ | 100% | エンツォ・フェラーリ | スクーデリア・フェラーリ設立 |
1947年 | エンツォ・フェラーリ | 100% | エンツォ・フェラーリ | フェラーリS.p.A.設立、初のロードカー製造開始 |
1969年 | フィアット, エンツォ・フェラーリ | フィアット50% | エンツォ・フェラーリ | フィアットによる株式取得 |
1988年 | フィアット, エンツォ・フェラーリ | フィアット90% | エンツォ・フェラーリ | エンツォ・フェラーリ死去、フィアットが90%取得 |
1991年-2014年 | フィアット (後にFCA) | 90% | ルカ・ディ・モンテゼーモロ | ブランド価値向上と収益性重視 |
2014年-2015年 | FCA | 90% | セルジオ・マルキオンネ | フェラーリのスピンオフ決定 |
2015年10月 | FCA, ピエロ・フェラーリ, 一般 | FCA 80%, ピエロ10%, 一般10% | セルジオ・マルキオンネ | NYSE上場 (RACE) |
2016年以降 | 一般, エクソール, ピエロ・フェラーリ | エクソール24%, ピエロ10%, 一般66% | (独立経営陣) | 独立企業としての運営 |
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