| エンツォ・フェラーリは常に技術の限界を追求し、それによって人間の能力を拡張しようとすることをやめなかった |
そこには生い立ち、自身の興味、先見性など様々な要素が絡み合っている
さて、フェラーリがその創業者、エンツォ・フェラーリに焦点を当てたコンテンツを公開。
フェラーリは以前にもなんどかエンツォ・フェラーリの人となりを紹介する内容を公開していますが、今回は「なぜエンツォ・フェラーリがモータースポーツに興味を持つようになったのか」について語られています。
エンツォ・フェラーリは1898年、板金工の次男として生まれる
エンツォ・フェラーリはイタリアはモデナにて1989年に板金工の次男として生を受けており、フェラーリによると、父アルフレードに連れられ1908年にボローニャにて開催されたカーレース、コッパ・フローリオを見に行ったことでモータースポーツに興味を持ったとのこと。※フェラーリ一家の長男の名は代々アルフレードであり、エンツォ・フェラーリの長男の名もアルフレードであった
エンツォ・フェラーリは学業においては目覚ましい成績をあげることはなかったものの、機械工学分野における「発明」においては飛び抜けた才能を発揮したといい、実際にそのレベルは生家である鈑金工場の現実の業務に役立っていたほどだとされています。
そしてエンツォ・フェラーリは機械設備に囲まれて育つうちに自動車やトラック、様々な乗り物の持つ「人間の能力を大きく伸長させる」能力に魅入られていったといい、この流れが加速して「技術の助けを借りることで人間の限界に挑む」モータースポーツへと傾倒したであろうことは容易に想像が可能です(テクノロジーによって人間の活動領域を拡張するという考え方は現代のフェラーリにも当てはまる)。
つまり、(機械に囲まれるという)自身の生まれ育った環境、そしてのちに触れることになったモータースポーツ、さらには生来の発明家気質が重なって僕らの知るエンツォ・フェラーリが完成されたということになるのかもしれません。
-
フェラーリが「現実世界と仮想世界を融合する」特許を出願。実車を運転するドライバーと家庭からオンラインで接続して走る仮想車とが同じサーキットにて競うことが可能に
| フェラーリは様々な「ユーザーフレンドリー」な特許を出願している | その排他的イメージとは裏腹に、多くの人にそのパフォーマンスを体験して欲しいと考えているようだ さて、これまでにも多数の特許を出願 ...
続きを見る
さらにその後、第一次世界大戦によって自動車の製造が合理化されたことで普及が進み(戦争はいつでも技術の発展を加速させてきた)、これによってモータースポーツがより身近な競技として人気を博するようになったことでエンツォ・フェラーリの情熱がさらに加速することに。
そしてついにエンツォ・フェラーリは1919年、21歳の若さで初レースへと臨むことになるわけですが(この際にドライブしたのはCMN)、その後イゾッタ、アルファロメオとマシンを変え、とくにアルファロメオではタルガフローリオはじめいくつかのレースで(クラス)優勝を収めています。
これら勝利のうち、特筆すべきは1923年のサヴィオ・サーキット(デル・サビオ・グランプリ)での優勝で、ここで若きエンツォ・フェラーリはイタリアの撃墜王の母親、コンテッサ(伯爵夫人)パオリーナ・ビアンコリからトロフィーを授与され、同時に「息子が愛機に描いていた跳ね馬の紋章」を使用するように勧めたのだそう(これはエンツォ・フェラーリが自ら語った話であり、真偽については永遠のナゾである)。
-
フェラーリが公式にそのエンブレム誕生を語る。エンツォとミラノの芸術家によって作られ、文字の上で「馬が跳ねているように」というのはエンツォの指示だった
| フェラーリが公式にエンブレムについて語るのはおそらくこれが初だと思われる | フェラーリの「馬」は現在に至るまでに「スリム」になっていた さて、フェラーリは自動車業界でもっとも印象的なエンブレムを ...
続きを見る
そして当時、コンテッサ・パオリーナ・ビアンコリが「跳ね馬のエンブレムは、あなたに幸運をもたらすでしょう」と言った通り、エンツォ・フェラーリはモータースポーツにおいて数々の成功を収め、しかし愛息アルフレッド(ディーノ)の誕生を機に自身のドライバーとしてのキャリアに自ら幕を引いています(1931年8月9日、トレプロヴィンチャ・サーキットで開催されたレースがエンツォ・フェラーリ最後の舞台であった)。
-
フェラーリが最初に走らせたF1マシン、125GPC(のちに125F1に改名)はこんなクルマ。1.5リッターV12にスーパーチャージャー、50戦のうち優勝8回
| フェラーリはクローズドホイールレースで活躍を見せる一方、いち早くオープンホイールレースにも可能性を見出していた | 125GPC(125F1)は発表当初から高い戦闘力を見せている さて、フェラーリ ...
続きを見る
ドライバーとしてのキャリアを終了させたのち、エンツォ・フェラーリはレーシングカーの製造に情熱を傾ける
かくしてレースを引退したエンツォ・フェラーリは、1932年以降その情熱をレーシングカーを作ることに捧げ、1929年に設立したスクーデリア・フェラーリ、そして跳ね馬のエンブレムとともにその道を突き進むこととなるわけですが、モータースポーツに対する姿勢と情熱に変わりはなく、第一線で戦うことをやめたといえど、「その関わり方が少し変わったのみ」。
実際のところ、1988年に没するまではずっと(F1であろうと耐久レースであろうと)自身のチームのドライバーは自身で選んでおり、これには「自身がトップレベルのドライバーであったからこそ」可能であった選択だと言われます。
「もし、少年時代のエンツォ・フェラーリが父に連れられレースを見に行っていなかったら」、今日のフェラーリは存在しなかったのかもしれないと考えたりするものの、しかしその機会がなかったとしても、エンツォ・フェラーリはいずれどこかでモータースポーツとまた違う形で出会い、今と同じようにフェラーリのDNAを作り上げていたのかもしれません(そういった運命にあった人なのだと思う)。
エンツォ・フェラーリの歩みを紹介するフェラーリ公式動画はこちら
合わせて読みたい、エンツォ・フェラーリ関連投稿
-
エンツォ・フェラーリの息子がオーダーしたプロサングエが公開!亡き父が乗っていたフェラーリと同じカラーを再現し、ボディサイドにはあえて「エンブレムなし」
| フェラーリのエンブレムをサイドに付けなかったのは「それがなくてもフェラーリはそれとわかる存在だから」 | 一方でカーボンルーフ、ダイヤモンドカットによるホイールなど現代風のディティールも さて、フ ...
続きを見る
-
2月18日は「ビジョン、決意、継続力をもって夢を実現した男」、エンツォ・フェラーリの誕生日。2023年は生誕125周年、125秒で偉業を紹介する動画が公開
| エンツォ・フェラーリの「電動化」に関する意見をちょっと聞いてみたい | たった一人の若き整備士がその情熱をもって「世界で最も価値のあるブランド」のひとつを作り上げる さて、2月18日はエンツォ・フ ...
続きを見る
-
エンツォ・フェラーリは自分宛ての手紙にすべて返信していた!エンツォの死の直前に手紙を送った当時の子供達が40年近くを経てフェラーリ本社に招かれる
| フェラーリは排他的であり続ける一方、”ファミリー”に対しては献身的だ | 当時夢見たF1マシン、そしてフェラーリのロードカーと対面を果たす さて、毎年このクリスマスシーズンになると各自動車メーカー ...
続きを見る