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フェラーリを設立し確固たるDNAを確立した男、エンツォ・フェラーリはどこでモータースポーツと出会い、どのようにして情熱を傾けるようになったのか【動画】

フェラーリを設立し確固たるDNAを確立した男、エンツォ・フェラーリはどこでモータースポーツと出会い、どのように情熱を傾けるようになったのか【動画】
Ferrari / Youtube

| エンツォ・フェラーリは常に技術の限界を追求し、それによって人間の能力を拡張しようとすることをやめなかった |

そこには生い立ち、自身の興味、先見性など様々な要素が絡み合っている

さて、フェラーリがその創業者、エンツォ・フェラーリに焦点を当てたコンテンツを公開。

フェラーリは以前にもなんどかエンツォ・フェラーリの人となりを紹介する内容を公開していますが、今回は「なぜエンツォ・フェラーリがモータースポーツに興味を持つようになったのか」について語られています。

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エンツォ・フェラーリは1898年、板金工の次男として生まれる

エンツォ・フェラーリはイタリアはモデナにて1989年に板金工の次男として生を受けており、フェラーリによると、父アルフレードに連れられ1908年にボローニャにて開催されたカーレース、コッパ・フローリオを見に行ったことでモータースポーツに興味を持ったとのこと。※フェラーリ一家の長男の名は代々アルフレードであり、エンツォ・フェラーリの長男の名もアルフレードであった

エンツォ・フェラーリは学業においては目覚ましい成績をあげることはなかったものの、機械工学分野における「発明」においては飛び抜けた才能を発揮したといい、実際にそのレベルは生家である鈑金工場の現実の業務に役立っていたほどだとされています。

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そしてエンツォ・フェラーリは機械設備に囲まれて育つうちに自動車やトラック、様々な乗り物の持つ「人間の能力を大きく伸長させる」能力に魅入られていったといい、この流れが加速して「技術の助けを借りることで人間の限界に挑む」モータースポーツへと傾倒したであろうことは容易に想像が可能です(テクノロジーによって人間の活動領域を拡張するという考え方は現代のフェラーリにも当てはまる)。

つまり、(機械に囲まれるという)自身の生まれ育った環境、そしてのちに触れることになったモータースポーツ、さらには生来の発明家気質が重なって僕らの知るエンツォ・フェラーリが完成されたということになるのかもしれません。

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さらにその後、第一次世界大戦によって自動車の製造が合理化されたことで普及が進み(戦争はいつでも技術の発展を加速させてきた)、これによってモータースポーツがより身近な競技として人気を博するようになったことでエンツォ・フェラーリの情熱がさらに加速することに。

Ferrari / Youtube

そしてついにエンツォ・フェラーリは1919年、21歳の若さで初レースへと臨むことになるわけですが(この際にドライブしたのはCMN)、その後イゾッタ、アルファロメオとマシンを変え、とくにアルファロメオではタルガフローリオはじめいくつかのレースで(クラス)優勝を収めています。

これら勝利のうち、特筆すべきは1923年のサヴィオ・サーキット(デル・サビオ・グランプリ)での優勝で、ここで若きエンツォ・フェラーリはイタリアの撃墜王の母親、コンテッサ(伯爵夫人)パオリーナ・ビアンコリからトロフィーを授与され、同時に「息子が愛機に描いていた跳ね馬の紋章」を使用するように勧めたのだそう(これはエンツォ・フェラーリが自ら語った話であり、真偽については永遠のナゾである)。

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そして当時、コンテッサ・パオリーナ・ビアンコリが「跳ね馬のエンブレムは、あなたに幸運をもたらすでしょう」と言った通り、エンツォ・フェラーリはモータースポーツにおいて数々の成功を収め、しかし愛息アルフレッド(ディーノ)の誕生を機に自身のドライバーとしてのキャリアに自ら幕を引いています(1931年8月9日、トレプロヴィンチャ・サーキットで開催されたレースがエンツォ・フェラーリ最後の舞台であった)。

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ドライバーとしてのキャリアを終了させたのち、エンツォ・フェラーリはレーシングカーの製造に情熱を傾ける

かくしてレースを引退したエンツォ・フェラーリは、1932年以降その情熱をレーシングカーを作ることに捧げ、1929年に設立したスクーデリア・フェラーリ、そして跳ね馬のエンブレムとともにその道を突き進むこととなるわけですが、モータースポーツに対する姿勢と情熱に変わりはなく、第一線で戦うことをやめたといえど、「その関わり方が少し変わったのみ」。

実際のところ、1988年に没するまではずっと(F1であろうと耐久レースであろうと)自身のチームのドライバーは自身で選んでおり、これには「自身がトップレベルのドライバーであったからこそ」可能であった選択だと言われます。

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「もし、少年時代のエンツォ・フェラーリが父に連れられレースを見に行っていなかったら」、今日のフェラーリは存在しなかったのかもしれないと考えたりするものの、しかしその機会がなかったとしても、エンツォ・フェラーリはいずれどこかでモータースポーツとまた違う形で出会い、今と同じようにフェラーリのDNAを作り上げていたのかもしれません(そういった運命にあった人なのだと思う)。

エンツォ・フェラーリの歩みを紹介するフェラーリ公式動画はこちら

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参照:Ferrari, Ferrari(Youtube)

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