| やっぱり、ポルシェとメルセデス・ベンツは仲がいいのかそうでないのかわからない |
それにしても、このクルマがポルシェ設立のきっかけになっていたとは
さて、ポルシェが1922年のメルセデス・ベンツ(正確には当時のDMG=ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト)のレーシングカーをレストアした、と発表。
たしかにポルシェとメルセデス・ベンツとは浅からぬ関係にありますが、これまでポルシェがメルセデス・ベンツのレーシングカーを復元した例は無いと認識しており、しかし動画を見ると「納得に足る理由」があるもよう。
ここでその内容を見てみましょう。
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当時、ポルシェ創業者はメルセデス・ベンツで働いていた
ポルシェ創業者、フェルディナンド・ポルシェは1906年に技術部長としてダイムラーへと入社しており、そこでは「28/30HP マヤ」などのレーシングカー、航空機用エンジンを設計することになりますが、ずっと抱いていたのが「小型で高効率なスポーツカーを作ること」。
そしてそのヴィジョンはダイムラーの出資者でもあるアレクサンダー "サッシャ "ヨーゼフ・フォン・コロワート=クラコフスキー伯爵と共通しており、しかしダイムラーの役員会は「小排気量のスポーツカー」には興味がなかったとされています(たしかにダイムラーは昔から大排気量大パワー、そしてサイズが大きなクルマを好んでいる)。
そこでフェルディナント・ポルシェが役員会を説得するために製作したのが今回復元されたADS R「サッシャ」。
アレクサンダー "サッシャ "ヨーゼフ・フォン・コロワート=クラコフスキー伯爵の資金提供によって実現したために「サッシャ」というペットネームが付与されているわけですが、フェルディナント・ポルシェは4台のADS R サッシャを製造して1922年、つまり100年前のタルガ・フローリオへと参戦します。
このADS R サッシャの車体重量はわずか598キログラムしかなく、コンパクトな水冷1.1リッター直列4気筒エンジンと2本のオーバーヘッドカムシャフトを搭載し、約50馬力を発生したといいますが、もちろんタルガ・フローリオには、より大型でパワフルなレーシングカーも多数参戦し、しかしADS R サッシャは優れた重量配分とパワーウエイトレシオをもって総合19位に入り、小排気量クラスでは1位と2位を独占することに。
ADS R サッシャはタルガ・フローリオにて全長432キロメートル、6,000ものコーナー、最大12.5パーセントの傾斜を走り抜き、4倍や5倍のパワーを持つクルマと堂々たる戦いを繰り広げたということになり、その後にも51回のレースに出場して、1位を43回、2位を8回獲得したという記録が残りますが、それでもダイムラーの取締役会はこの小型スポーツカーの開発にGOサインを出さなかった、とのこと。
そこでフェルディナント・ポルシェは「ポルシェ」を設立
ダイムラーがこの小型スポーツカーの開発を渋ったのは「コストが掛かりすぎるから」だとされており、これはある意味で事実だったのかもしれません。
というのもフェルディナント・ポルシェが設計した車両や戦車などはしばしば「コストが掛かりすぎる」という理由でプロジェクトが破棄されることが往々にしてあったためで、このADR サッシャも同様の例であった可能性がありそうです。
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ちなみにポルシェ924についても、フォルクスワーゲンが(自社から発売するために)ポルシェに設計を依頼し、しかしやはりコストが高くなってしまうという判断から凍結され、それをポルシェが買い取って自社から発売したという例の一つ。
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さらにその後、このADR サッシャに絡む死亡事故が発生し、ダイムラーがその責任をフェルディナント・ポルシェに押し付けるにあたり、フェルディナント・ポルシェはその場でダイムラーを退社し、その数年後の1931年に「Dr. Ing. h.c. F. Porsche AG」を設立したわけですが、当時その設立の理由については下記のとおり。
最初に周囲を見渡した時、自分が夢見てきた”小型で軽量、高効率なスポーツカーはどこにもなかった。だから自分で作ることにした(In the beginning, I looked around and could not find the car I'd been dreaming of: a small, lightweight sports car that uses energy efficiently. So I decided to build it myself.)”。
その意味において、1922年に製作したこのADS R サッシャはフェルディナント・ポルシェの「原点」でもあると考えられ、会社としてのポルシェが設立されるためのターニングポイントであったことは間違いなさそう。
なお、このADS R サッシャは現在この1台しか存在しないといい、それはもともとポルシェミュージアムに収められていたそうですが、今回「ADS R サッシャの初勝利から100年」を祝って復元されたわけですね。
ちなみにエンジン始動は「クランク」。
当時のクルマはドライバーとクランクを回す人とが連携してエンジンを始動させており、日本ではクランクを回す人を「助手」と呼び、その人が座る席として運転席の隣が「助手席」と命名されています。
かくしてこのADS R サッシャはかつての栄光を取り戻したわけですが、その運転の楽しさについてはドライバーのこの表情を見れば一目瞭然なのかもしれません。
フェルディナント・ポルシェが100年前に設計したADS R サッシャを紹介する動画はこちら
参照:Porsche