
| おそらく、ボクは降って湧いた幸運に「自分がそれを受け取る資格がない」と考えているのだと思う |
やはり自分自身の力によって勝ち取らないと「自分のもの」として喜べない
世の中の多くの人が「褒められたい」「認められたい」と考えていると思いますが、正直言うとぼく自身は「褒められるのも認められるのも苦手」。
とくに「そうなった」経緯は思い当たらないものの、一定の割合でぼくと同じような「褒められることが苦痛な人」がいるそうなので、これは先天的なものなのかもしれません。
なぜ褒められること、認められることが苦手なのか
そこでぼくなりに「褒められること」「認められること」が苦手な理由を考えてみると、単に「自分がそれに見合うレベルの人間ではない」と考えているからなのかも。
ぼく自身、どのような分野においても人の上に立つような人間であるとは考えておらず、むしろ「どこへ行ってもいちばん下」だと考えているので、そういった状況において「褒められる」ということに違和感があるわけですね。
なお、「いちばん下」だと考えているのもまた先天的なものかもしれず、しかしそう考えると気が楽ですし(自分が人よりも上だと思って生きていると、些細なことに腹が立って仕方ないと思う)、ここから何でも学んで何者にでもなれると考えたほうが人生が建設的(楽観的)なものになるかもしれません。
よってぼくは「すごいですね」と言われるよりも「バカだなお前」と言われる方が性に合っていて(けしてマゾなわけではない)、そのため「けなされたとしても」常になんらかの改善の余地がある、として前向きに捉えています。※けして卑屈にはならない
ボクは素直に幸運を喜ぶことができない
そしてこれも一定の割合が存在するそうですが、ぼくもまた「幸運を喜べない」タイプ。
たとえば宝くじが当たったとしても、喜ぶよりも先にそれを失う(あるいは現金を適することができない)ことを考えたり、保有している株式の株価が暴騰しても「明日には下がるだろう」と考えたりするわけですね。
ただ、これは「喜べない」だけであって、失うことを「恐れる」わけではないというのが重要な要素であり、シェイクスピアの喜劇「ベニスの商人」での一節にある「お金を持っていても常にそれを失うことを恐れていては、冬枯れのようなもの」とはちょっと異なります。
もっと掘り下げるならば、「失う」以前の問題つまり「それを手にすることができるかどうかを疑問視している」と考えてよく、これは「自分は褒められるべき / 認められる人物に値しない」と考えているのと同様に、降って湧いた幸運を「自分のもの」として実感できないのかもしれません。
そう考えるならば、ぼくは「自分が努力して掴み取ったもの」でなくては受け入れることができず、たとえ手にしたものであっても実感が湧かないということなのかもしれませんね。
そしてこれも同じ理由からだと思われますが、ぼくは自分の力以外に期待するものを持たず、そもそも「宝くじを買わない」。
要するに「儚い期待を人生に抱かず、人生は自分の力のみによって切り開かれる」と考えているのだと思われます。
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