| 事実は小説よりも奇なり |
マクラーレンF1といえばスーパーカー界のレジェンドでもありますが、今回「マクラーレンF1の知られざる7つの秘密」という動画が公開に。
この中ではいくつかの個体にまつわる数奇なストーリーが紹介されていますが、とくに印象深いのが「上野クリニック」がスポンサーとなり、1995年のル・マン24時間レースにて総合優勝を飾った個体。
これにまつわる物語を見てみましょう。
物語は一本の電話から始まった
今回動画を公開したカースロットルによると、この個体が誕生したのは「上野クリニック」の経営者、「サヤマモトカズ」氏がマクラーレンに一本の電話を入れたことから。
同氏はマクラーレンの大ファンであり、マクラーレンが1995年のル・マンに参加することを知って「当院の名を車体に表示できないか」とマクラーレンに相談した、とのこと。
ただし、すでにル・マンに参戦が決定していた6台のマクラーレンF1はハロッズ、ガルフなどのスポンサーが決定しており、上野クリニックが入り込む余地はナシ。
しかしながらマクラーレンは1台でも多く出走させたかったのか、「走ることができるマクラーレンF1」を無理やり探し、急遽シャシーナンバー01R”プロトタイプ”をル・マンへと参戦可能な状態にコンバート。
これのメインスポンサーに上野クリニックを据えた、とのこと(チームは国際開発UK、車両の所有はマクラーレン)。
なお、この「マクラーレンF1 GTR上野クリニック(カーナンバー59)」はル・マン24時間レース開催6週間前にギリギリ完成したにもかかわらず、その年のル・マンの総合優勝という偉業を成し遂げているので、いかにそのポテンシャルが高かったかということもわかりますね。※さらにレースは「ぶっつけ本番」だったという
この際のドライバーはヤニック・ダルマス/JJ.レート/関谷正徳の3名。
豪雨の中を平均速度168.992km/h、4,055kmを走りぬき、加えてマクラーレンは3位、4位、5位にも入賞するなど目をみはる活躍を見せていますが、冷却液が漏れたり、予選でオーバーレブを起こしたためにエンジンを載せ替えるなど、最初から順風満帆ではなかったようですね。
なお、この勝利によって、関谷正徳氏は「ル・マンで優勝した最初の日本人」となっています。
もちろんこの優勝に喜んだのがマクラーレンで、サヤマモトカズ氏に「巨額割引」にて、ル・マン24時間レースで優勝を飾った59号車と同じツートンカラーをもつシャシーナンバー43のマクラーレンF1(ロードカー)を販売したという事実もある模様(ツートンカラーのF1が存在することすら知らなかった)。
さらにこれには後日譚があり、ブルネイのスルタンが「10台まとめて」マクラーレンF1を購入していて、このうち一台(シャシーナンバー09R)はル・マンで優勝した59号車の完璧なレプリカとのこと。※本物の59号車は、ル・マン24時間レース終了後、ル・マン・ミュージアムに展示され、その後にマクラーレンが(今に至るまで)保管している
なお、1995年のル・マン優勝にもかかわらず、マクラーレンF1GTRは「ダウンフォースが致命的に欠けていた」という事実が露見。
これに対応したバージョンアップ版がマクラーレンF1 GTRロングテールです(これが現代の”LT”につながる)。
こちらは1997年のル・マンを戦った個体ですが、フロントウインドウには「UENO CLINIC」の文字があり、1995年以降も関係性が続いていたことがわかりますね。
VIA:Car Throttle