さて、ぼくはかつて家の床がたわむほどの書籍を保有していましたが、2018年の地震を機にそのほとんどを処分することに。
ただ、そのなかでも残している本もけっこうあって(まだ壁一面の本棚いっぱいくらいはある)、そのうちポルシェと関連深い(と独断で考える)ものを紹介したいと思います。
-
さよならボクの人生の一部。地震で修復不能になったミニカーやフィギュアなどを捨ててきた
| 一瞬にしてコレクションがゴミの山に | さて、地震によって家屋内外の様々なものが破損しましたが、とりあえず破損した中でも修復不能なものを思い切って処分することにしました。 とにかく家の中が散らかっ ...
続きを見る
先にタイトルを上げておくと、「雨の日には車をみがいて(五木寛之)」「僕らがポルシェを愛する理由(山川健一)」「田宮模型の仕事(田宮俊作)」「半島を出よ(村上龍)」。
ここで順番にその内容を見てみましょう。
「雨の日には車をみがいて(五木寛之)」
これはもう自動車小説としては「鉄板」であり、シムカ1000、ボルボ、アルファロメオ・ジュリエッタ・スパイダー、、BMW2000CS、ポルシェ911S、ボルボ122S、シトロエン2CV、ジャガーXJ6、メルセデス・ベンツ300SEL 6.3、サーブ96Sにまつわる男女のラブストーリーを描いたもの。
それらラブストーリーはクルマごとの短編仕立てとなっていますが、その中のひとつ「時をパスするもの」に登場するのがポルシェ911S。
主人公(若かりし日の五木寛之?)がポルシェ911を手に入れ、パリ帰りの女性と付き合うことになるわけですが、彼女とのドライブ中に事故を起こしてしまいます。
そこで主人公が語るのがこの一説。
「ぼくにはわかっていた。911Sは、ぼくには過ぎたクルマだったのだ」。
その後主人公は「ぼくはやがて彼女と別れた。ポルシェ911Sとも、その後しばらくして別れた。ぼくは当分のあいだ、車を持つことをやめようと決心した。ぼくは自分の足で歩きはじめようとしていた」となるのですが、ぼくがこの小説を読んだのはまだ大学生の頃で、当時まさか自分がポルシェに乗ろうとは思ってもいなかったわけですね(適当な会社に就職して、適当なところで結婚して、子供を2人くらい作って、カローラくらいに乗って”クラウン欲しいな”と思いながら老いて死ぬんだと思ってた)。
なお、ぼくのポルシェ911に対する印象を決定づけたのはこの小説であり、ぼくが911を降りようと思ったのもまたこの小説が理由。
ぼくは2005年にポルシェ911を購入しているるものの、やはりぼくにとってもポルシェ911は過ぎた車であったようです。
「僕らがポルシェを愛する理由(山川健一)」
どうやら1990年代は小説家(と漫画家も)がポルシェに乗るというのが一つのステータスであったようで、多くの作家がポルシェを題材にした作品を発表しており、この「僕らがポルシェを愛する理由」もその一つ。
これは1996年の発行ですが、同じ1996年には原田宗典が中央道をポルシェにて走行中、コントロールを失って大事故を起こすという事故も起きています。
本書については、中学時代からの憧れであったポルシェ911を手に入れた山川健一がその愛を綴り、ポルシェの歴史や運転の作法について述べたもので、いわば「エッセイ」に分類したほうがいいかもしれません(同氏はのちにアルファロメオに心を奪われることになる)。
「雨の日には車をみがいて」とは異なり文学性を楽しむ一冊ではありませんが、ポルシェ911を理解する上で読んでおいて損はない、と考えています。
「田宮模型の仕事(田宮俊作)」
これは小説というか、田宮模型創業者の息子(のちに田宮模型社長)である田宮俊作による自伝的な書籍。
ただしその中身は模型そしてクルマに対する情熱があふれんばかりにしたためられたもので、クルマを愛する人の心にきっと響くんじゃないか、とも考えています(ぼくの人生に対する考え方に影響を与えた一冊でもある)。
ポルシェに関する記載が特別多いわけではありませんが、1976年に田宮が発売したポルシェ934ターボの開発秘話が載っていて、なんと田宮俊作はこの開発のために実際にポルシェ911を購入し、プラモデル化のために分解したのだそう。
ちなみにこのポルシェ934ターボ(1/12)は「実車を分解しただけあって」精巧な作りをもっており、現在でも不定期的に復刻され発売されていますが、44年も前に「現代でも通用する」プラモデルを作り上げた男の生き様を見るのも悪くないかもしれません(このほか、社員の熱いエピソードも見逃せない)。
なお、タミヤからは多くのポルシェ(プラモデル、RCカー)が発売されていて、かなり「ポルシェ好き」な会社だと言えそうですね。
「半島を出よ(村上龍)」
最後は村上龍の「半島を出よ」。
これは北朝鮮のテロリストに対抗する少年たちの物語で、車が登場するのもごくわずか。
そしてポルシェについての描写はさらに少なく、後日談の中で、成長した少年の一人が「銀色のポルシェに乗っている」という記載があるのみ(比喩としてのランボルギーニも一回だけ登場する)。
この「少年たち」というのはいわゆる社会不適格者(しかしある方面では高い能力を発揮する。つまり落ちこぼれではない)の集まりを指し、しかしそれぞの得意分野を発揮してテロリストを駆逐することに成功するわけですが、この「一見、社会不適格者に見える子供は、じつは人並外れたポテンシャルを持っている」というテーマは一時期以降の村上龍に共通する傾向。
ぼくがこの小説に共感を覚えたのは、「世間一般の考え方としては”欠陥品”に属する自分が、その欠陥だと指摘された部分を活かしてお金を稼ぎ、ポルシェを購入した」という相通じる点からなのかもしれません(広義のサヴァン症候群のようなもの)。
ちなみ村上龍の場合、他の小説でもごく稀にクルマが登場することがあり、たとえば「世界一安全なクルマ」としてのボルボ(愛と幻想のファシズム)など。
いずれの登場するのはほんの一瞬で、細かい説明はまったく無いものの、逆の方向から考えると、それに乗る人の性質を「たったひとことで」言い表しているわけですね(村上龍からはクルマ好きという印象を受けないが、しかしクルマの持つイメージを的確に捉え、活用しているようだ)。
ちなみに村上”春樹”のほうはけっこうなクルマ好きだと思われ、ポルシェを所有していたと認識しているものの、こちらは(エッセイを除くと)ポルシェが作品中に登場した記憶はなく、覚えているのはフォルクスワーゲンとマセラティくらい。
このほか、芥川賞作家である羽田圭介著「ポルシェ太郎」はちょっと読んでみたいと考えていて、中古が出回る頃に購入してみようと思います。