| この時代のフェラーリは顧客の要望にあわせて「ワンオフ」にて製造された例が多いようだ |
それにしてもこの美しさには目を奪われる
さて、製造わずか12台、フェラーリ375アメリカ「カブリオレ」がオークションに登場予定。
しかもこの個体は1950年台に製造された4.5リッター・ビッグブロックエンジンを積んだ3台のカブリオレのうちの一台、さらにはビグナーレ(ビニャーレ)によるアルミ製ボディが架装されたワンオフモデルという「レア中のレア」な一台です。
もともとは1954年に新車としてエンツォ・フェラーリが(イタリアの映画監督であるジュゼッペ・コリッツィの娘、ビアンカ・コリッツィに)直接販売したもので、1958年にアメリカに輸入され、そこからは4人の手を経るものの、直近25年は同じ所有者によって保管されていたのだそう。
なお、エンジン、ギアボックス、リアアクスル、ボディワークがマッチングナンバーのまま(つまり載せ替えていない)、そして希少なオリジナルのファクトリーハードトップも付属しており、その価値は非常に高い、と考えられます。
フェラーリ375アメリカはこんなクルマ
そこでこのフェラーリ375アメリカですが、1953年10月のパリ・サロンにて、顧客のグランド・ツアラー志向に応えるべく250エウロパとともに発表されたもの。
販売不振の342アメリカの後継モデルという位置づけであり、しかしV12エンジンの設計はコロンボではなくアウレリオ・ランプレーディ。
ホイールベースは当時のフェラーリとしてはもっとも長い2,800ミリ、シャシーナンバーはロードカー用の奇数が採用され、しかし末尾に「America Lungo」を示す「AL」が打刻されています。
当時はまだコーチビルダーによるボディの架装が「普通」に行われており、この375アメリカの大半はピニンファリーナ製のボディが与えられていたものの、上述の通りいくつかはビグナーレ(ビニャーレ)製のボディにてファクトリーコンバートされたうえで工場から送り出されています。
このフェラーリ375アメリカ・カブリオレはフェラーリ・クラシケを取得済みといい、フェラーリの研究家であるマルセル・マッシーニ氏の調査によると、当初ブラックのインテリアにブラックのペイント、そしてタンのソフトトップで工場から出荷されたといい、ワンピース形状のラップアラウンド・ウィンドスクリーン(フィアット総帥、ジャンニ・アニエッリ氏のために制作されたクーペも同様のデザインのウインドウを持っている)、フードスクープ、そして5枚ギル(エラ)を持つフェンダーヴェント、リアフェンダーを貫くボトムキャラクター・ラインが特徴となっています。
このデザインは、フェラーリの顧客として知られるベルギー王女リリアーヌ・ド・レティが購入したシャシー番号0359GTの250ヨーロッパGTのヴィニャーレ製ボディに似ているとされ、しかし今回出品されるシャシーナンバー0353はそれよりもホイールベースが長いため、現代の「ローライダー」カスタム的な雰囲気も感じさせます。
上述の通り納車されたのはイタリアの映画監督の娘であり、納車は1954年12月のクリスマスの少し前だという記録が残り、当事のナンバープレートは「Roma 215282」。
ただしわずか1年後に別のオーナーの手に渡り、後にスクーデリア・フェラーリのファクトリー・ドライバーとなるルイジ・ムッソがこのクルマをTWAのアメリカ人社員で、ミラノ支社を開設したばかりのハリー・チェンバースという知人へと仲介。
ハリー・チェンバースは、1960年にイタリア政府から爵位を授与され、フロリダ州ケープカナベラルのNASAケネディ宇宙センターでゼネラルマネージャーを務めるなど、航空宇宙分野で長いキャリアを積んだ人物だとされ、1956年10月に正式にオーナーとなっています。
同氏の所有期間は約2年間にとどまり、しかしこの375アメリカでしょっちゅうサーキットを走っていたといい、モンツァ・サーキットに駐車しているところを写真に撮られたこともあるのだそう。
その後1958年7月、ハリー・チェンバースはこのフェラーリを友人であり、TWAの配車係でもあるカリフォルニア州ロサンゼルス出身のジョセフ・フィッチに売却し、この時点ではボディカラーはメタリックグレーに再ペイントされていたといい、ジョセフ・フィッチ氏はイタリアにて一時的に375アメリカにしばらく乗った後、1958年12月にカリフォルニアへと輸入しています。
ただ、不幸なことにアメリカへの輸送中に事故が発生し、ボディの一部を修理するのにあわせて車体をダークブルーに再々ペイントし、さらにはドライブトレーンなどメカニカルコンポーネントもリビルドすることになり、1962年にはようやく修復が完了することに。
このフェラーリ375アメリカはコンクールデレガンスで1位を獲得したことも
そして修復完了後、このフェラーリ375アメリカは様々なイベントへと顔を出すことになり、1969年にはカリフォルニア州カルバーシティで開催されたフェラーリ・オーナーズ・クラブのミーティングへと出展され、1972年8月にはハリウッドボウルのコンクール・デレガンスでクラス1位を獲得したことも。
ただ、(高齢のため?)ジョセフ・フィッチ氏はこのクルマを次世代へと託すことを考え、一時はスミソニアン博物館とカニンガム自動車博物館に寄贈の可能性を相談したこともあったそうですが、最終的にはイリノイ州スプリングフィールドのフェラーリ愛好家、ウェイン・ゴロムへと(1974年に)このクルマを売却しています。
ウェイン・ゴロムの所有期間中、この375アメリカはいくつかのフェラーリ関連の出版物に掲載され、1980年にはフルレストアが行われることになりますが、1995年にイリノイ州在住のデニス・マチュールへとこのフェラーリ375アメリカを売却し、1998年に現在のオーナーがこのクルマを手に入れ、そこでボディカラーはブラックへ、インテリアカラーはワインレッドに、そして幌も張り替えられることになったと紹介されています。
その後ずっと現在に至るまでこのフェラーリ375アメリカは空調完備の倉庫にて丁重に保管されていたそうですが、その希少性、コンデイション、シャシーやパワートレインのマッチング、さらには各メディアへの露出や受賞歴など申し分のない経歴を持っており、おそらくはとんでもない価格にて落札されることになりそうですね。※エスティメートは750万ドル、つまり日本円にして約10億円くらい
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参照:RM Sotheby’s