よくネット上で叩かれるのがスーパーカーの馬力や速度。
アウトバーンのように速度無制限区間があるわけでもなく、身近にサーキットがあるわけでもない日本において、スーパーカーの馬力や速度は無駄、というわけですね。
たしかにぼくも実際にポルシェやランボルギーニに乗っていてその性能をフルに引き出すことは技術的にも環境的にもできませんが、だからといって無駄とは思わないわけです。
そういったものを無駄と言い出せば、衣類はユニクロでいいですし、靴もABCマートでいいじゃない、となるわけですね。
ですが、そうではなくより良い素材やデザイン、機能の衣類や靴を求めるのは向上心の表れでもあり、(コンプレックスもあるかもしれませんが)少しでも自分をよく見せようという意識の表現でもあると思うのですね。
そして、人は常にそういった心を持つべきとぼくは考えていて、「常に足りない」と思うハングリーさがその人の生活レベルを引き上げるものと考えています(ただ、皆がそう考えると競争が厳しくなるので、今のままでいいという人が多いほうが実際は競争が楽になるのですが)。
そして、そういった一見「無駄」とも思えるものは心の余裕にもつながるわけで、例えばコンビニへ缶コーヒー一本を買いに行くのでも、「缶コーヒーだから130円あれば十分」と130円だけ持って行くのと、1000円をポケットに入れてゆくのとでは何かが違う、と思うのです。
別の表現をすると、「お金がなくて買えない」のと、「(買える)お金があって買わない」のでは、同じ「モノを買っていない」にも関わらず、まったく心の在り方が変わるわけです。
日本における高速道路の上限は確かに高くても100キロですが、100キロしか出ない車と、200キロ出る車では「余裕」が違います。
200キロ出る車は、なんらかの危険に遭遇した時も(制限速度内であっても)加速で躱せる能力がありますし、時速200キロで走れる車は、時速200キロでも止まることができるブレーキを持っており、それは制限速度内であっても「100キロしか出ない車」よりは安全だと思うのですね。
そして、「いざとなれば200キロ出せる」という余裕があれば、ちょっとやそっと煽られても無理をしようとは思わないかもしれません(喧嘩が強い人のが簡単に挑発に乗らないように)。
なお日産自動車によると、日本の高速道路の最大勾配を考えたとき、時速180キロ出せる性能がないと「その最大勾配を100キロで走れ(登れ)ない」とのことで、やはり「余裕」は大事なのだとぼくは考えています。
別の角度から見ると、美人が世の男性の目を楽しませるようにスーパーカーも人の目を楽しませるかもしれませんし、その意味でもスーパーカーの存在意義はある、とぼくは信じるのです。
そういった意味では「たとえ法定速度でしか走らないとしても」スーパーカーの存在する意味はあると信じていますし、ぼくは「お金と(車の)馬力はいくらあってもいい」と考えています。
同じ法定速度で走るにしても、「その速度しか出ない」よりは「それ以上出せるけど出さない」のほうが良いですし、モノを買わないと判断するときも「お金がなくて買えない」よりも「買えるお金はあるけれど買わない」側でいたい、と思うのですね。
そして、常に余裕を楽しんだり、余裕を解するだけの心の広さを持っていたい、とぼくは考えるわけです(たとえば食事をするにも、LED灯のほうが効率的で明るいとは思いますが、キャンドルのあかりで食事をするほうが雰囲気は出るわけで、何事も合理性や効率だけでものを考えないようにしたい、ということです)。