
| 跳ね馬の背負う宿命とは |
あまりにも「死」が身近にあった世界の住人、エンツォ・フェラーリ
エンツォ・フェラーリがその長いモータースポーツ人生の中で、身近な仲間として、そして自身のチーム(後のスクーデリア・フェラーリ)に関連して経験した最初の決定的な「ドライバーの死」は、ウーゴ・シヴォッチ(Ugo Sivocci)、そして精神的支柱であったアントニオ・アスカリ(Antonio Ascari)。
特に、エンツォの人生観やその後のチーム運営に最も強烈な衝撃を与えたのは、1925年のアントニオ・アスカリの死だとされています。
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この記事の要約
- 運命の1925年: エンツォが「兄」のように慕い、ビジネスの師でもあったアントニオ・アスカリがフランスGPで事故死
- 現場を仕切ったエンツォ: 27歳だったエンツォは、師の凄惨な事故現場の後始末を任され、勝負の残酷さを身をもって知る
- 「四つ葉のクローバー」の起源: その2年前、親友ウーゴ・シヴォッチの死をきっかけに、アルファロメオの「クアドリフォリオ」伝説が誕生
- 非情な哲学の形成: 相次ぐ仲間の死が、後に「ドライバーと深く関わりすぎない」というエンツォ独自の冷徹な運営哲学を生んだ
華やかなレースの裏側に刻まれた「最初の傷跡」
「レースは残酷な恋人である」——後にそう称されることになるエンツォ・フェラーリの人生。
彼がまだアルファロメオの一介のドライバーであり、ディーラーを営んでいた若き日、その心に最初の、そして最も深い傷を刻んだのは、肉親のように慕った男たちの死であったと伝えられています。
特に1925年、当時のイタリア最大のヒーローであり、エンツォにビジネスのアドバイスを送り続けていたアントニオ・アスカリの死は、エンツォを「一人のドライバー」から「冷徹なマネージャー」へと変貌させる決定的な転換点となったことでも知られていますね。
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1925年フランスGP、雨のモンレリーに消えた師
アントニオ・アスカリは、エンツォより10歳年上で、アルファロメオの絶対的エースといった存在。
エンツォは彼を深く尊敬し、アスカリもまた若いエンツォを弟のように可愛がっていたといいます。
しかし1925年7月26日、フランスのモンレリー・サーキットで開催されたフランスGP。
トップを独走していたアスカリは、左コーナーでコントロールを失いクラッシュ。マシンは横転し、彼は命を落としてしまうことに。
当時、現場にいたエンツォは、この凄惨な事故現場の処理を任されることとなり、血に染まった現場を片付け、師の遺品を整理するという過酷な経験が彼の心から「走る楽しさ」を奪い去り、「勝つことの義務と恐怖」を植え付けたのだと言われます。
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もう一人の親友:ウーゴ・シヴォッチと「クアドリフォリオ」
アスカリの死に先立つ2年前、1923年にもエンツォは大きな別れを経験しており、それがアルファロメオへの入社を手助けしてくれた親友でもあるウーゴ・シヴォッチ。
シヴォッチは不運を払うため、自身のマシンにいつも「緑色の四つ葉のクローバー(クアドリフォリオ)」を描いていましたが、まだそのマークが描かれていないクルマでモンツァ・サーキットでのテスト走行を開始し、そのテスト中の事故死によって帰らぬ人に。
豆知識: この悲劇以降、アルファロメオの高性能車には、シヴォッチへの追悼と幸運への祈りを込めて「クアドリフォリオ」が刻印されるようになり、今日まで続く伝統となりっている
死と隣り合わせの「スクーデリア」
アスカリやシヴォッチ、そして後に続く数多のドライバーたちの死。
これらはエンツォの中に「ドライバーは消耗品である(あるいは、深く愛してはならない)」という、ある種の防衛本能に近い冷徹な哲学を形作ったことは間違いなく、しかしその根底にあったのは、誰よりも仲間の死に傷つき、涙を流した若き日のエンツォの痛みだったのかもしれません。
そして彼が経験した「最初の死」は、フェラーリというブランドが持つ「勝利への執念、そして常に背中合わせにある死の影」という独特の美学の源流となったことは想像に難くなく、これがエンツォ・フェラーリの「死に対する」独特の考え方を植え付けたのだとも考えられます。
参考:アスカリ親子の数奇な運命
アントニオ・アスカリの息子、アルベルト・アスカリもまた、後にフェラーリで2度のF1世界王者に輝いた伝説のドライバー。
しかし、アルベルトもまた1955年、父と同じ「36歳」の時に、同じ「26日」に、テスト中の事故でこの世を去っています。
フェラーリの歴史は、こうした逃れられない運命の糸によって紡がれており、現在にまで至るわけですね。
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