
| そもそも何故モータースポーツの世界へと足を踏み入れたのかもわからない |
いち「個人」が自動車メーカーに対抗できるチームを立ち上げ、成長させるなど謎が深まる
フェラーリの創業者として知られるエンツォ・フェラーリ(1898-1988)。
ローマ教皇に対して「北の教皇」とも称されたカリスマ的で極めて複雑な人物ではありますが、非常に謎の多い人物としても知られます。
そして知れば知るほどよくわからない人物でもありますが、ここでエンツォ・フェラーリについていくつかの事項を考察してみましょう。
エンツォ・フェラーリは何をしたかったのか
彼の人生のすべては「レースで勝つこと」に捧げられており、その強烈な個性は現在のフェラーリのブランド神話そのものとなっていますが、不思議なことに「なぜクルマ、そしてレースに興味を持ったのか」はほとんど知られていません。
自分自身、なりたかった職業として「オペラ歌手、スポーツ記事のライター、レーシングドライバー」を掲げていますが、そもそもクルマに興味を持ったきっかけは全くのナゾ。
そしてエンツォ・フェラーリは自らの出自について「裕福ではなかった」としているものの、生家であった鉄工所には「幼少期、まだ自動車そのものが珍しかった時代であったにもかかわらず、実家は複数の車両を所有していた」という記述も見られます。
加えて、高価なクルマを購入しモータースポーツに参戦したあたりからも、実は「けっこうお金持ちであったのではないか」という考察もあるようですね。
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「フェラーリ」の名は「鉄」に由来する
参考までに、「Ferrari」という名は実家の鉄鋼業とも深い関係があり、イタリア語で「鉄」は「Ferro」、そして鍛冶屋は「Ferraio / Ferraia」、鍛冶屋の一族が「Ferrari」。
つまりエンツォ・フェラーリの一族は代々鍛冶屋を営んでいたということになりそうです。
なお、一時期以降トレードマークとなった「サングラス」は、単なるファッションではなく、自分の内面を見透かされないための防御策であったとされ、自身について「私は弱い人間だ。だから人々を寄せ付けないために仮面を被っている」と語ったことがあるといい、ここからもわかるとおり、「自分の内面(出自を含む)をあまり知られたくない、語りたくない」という一面を持っているのかもしれません。
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エンツォ・フェラーリは「金」「名誉」「地位」で動いていたわけではない
いずれにせよ、エンツォ・フェラーリはモータースポーツの世界に身を投じることになりますが、紆余曲折あって自身のレーシングチームを立ち上げてアルファロメオやジャガー、メルセデス・ベンツ、ポルシェ、ブガッティらと戦うことに。
ここで注目すべきは、「錚々たる自動車メーカーに、ほぼ個人レベルの域を出ないフェラーリのチームが戦争を挑んだこと」。
今現在、フェラーリは最もブランド価値の高い自動車メーカーの一つとして知られているので実感が湧きませんが、今だと「トヨタやポルシェ、メルセデス・ベンツが会社組織をあげて」参戦するル・マン24時間レースにプライベーターが挑むようなもので、これがいかに無謀な行為であるかがわかるかと思います。
ただ、エンツォ・フェラーリはこの無謀な挑戦にもかかわらず、ル・マン24時間レースやF1に勝利し、そしてそれを継続することで現在のポジションを築くことに成功したわけですね。
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エンツォ・フェラーリは何のためにレースをしていたのか?
そしてここで気になるのは「エンツォ・フェラーリは何のためにレースをしていたのか」。
上述の通り、彼の人生は「レースに捧げられた」といっても過言ではありませんが、お金を求めていたという記述や実際の行動は見当たらず、そして地位や名誉を欲していたようでもないようです。
欧米には「日曜にレースで勝ち、月曜にクルマを売る」という表現があり、これは「日曜日のレースで勝利し、その流れで客をディーラーに呼び込んで一儲けする」というビジネススタイル。
ただしエンツォ・フェラーリは市販車を売ることについてはもとよりあまりいい顔をせず、しかしレースの活動資金を得るため、周囲の助言によって渋々市販車ビジネスを始めた、と記録されています。
実際のところ、「私はレースをするためにクルマを売る。ジャガーはクルマを売るためにレースをする」という言葉にその考え方が凝縮されているかのようで、エンツォ・フェラーリにとっては「レースがすべて」だったのかもしれません。
さらに言えば、晩年は市販車部門への関与から手を引く一方、(フェラーリが所有する)フィオラノ・サーキットの横に居を構え、亡くなるまでそこで過ごしたというので、エンツォ・フェラーリにとっての「クルマ」とはレーシングカーであったのだと思われます(実際、プライベートではスポーツカーより、使い勝手の良い4ドアを好んだようなので、とにかくロードカーには興味がなかったようだ)。
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モータースポーツに関するエンツォ・フェラーリの哲学とは
エンツォ・フェラーリ自身はエンジニアでもなく、優れたレーシングドライバーでもなく、このあたりはポルシェ、ロータス、マクラーレン、ブガッティなどの創業者とは大きく異なるところ。
じゃあなぜフェラーリがここまで成長できたのかというと、それはエンツォ・フェラーリのマネジメント能力にあったのかもしれません。
このあたりはスティーブ・ジョブズに似ている一面もあり、自分が設計を行うことができないのであれば「設計をできる人間を連れてくる」というのがエンツォ・フェラーリの考え方。
スティーブ・ジョブズも「自分は演奏者ではなく指揮者であり、演奏するのはプレーヤーである」と述べていますが、エンツォ・フェラーリは「才能を見出し、自分のもとへと連れてくる」ことにあったのだとも考えられます。
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そして才能をさらに伸ばすため、同じ役割を持つ者同士を競争させたり、様々な恐怖政治を行ったりしていますが、後者については「ハウス・オブ・エラー」が有名で、これは「壊れたパーツを集めた一角を作り、それを常に目に触れるようにすることでエンジニアに”二度と同じ間違いをするな”というプレッシャーを与えた」というもの。
さらにこういった「競争」「プレッシャー」についてはレーシングドライバーについても同様で、常にドライバーラインアップについては「互いを刺激する」組み合わせを選択していたと言われます。
なお、エンツォ・フェラーリは他人に対して厳しいハードルを設ける一方、自身に対しても厳しかったといい、「男に娯楽はいらない。使命があればそれで十分だ」というモットーを胸に「休みなく」働き続けたことでも知られています(そして、それについて行けない者も少なくなかったようだ)。
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「革新的な機能」には興味がない?
エンツォ・フェラーリはエンジニアではありませんでしたが、それでもこだわったのが「V12」。
ただしV12にもかかわらず「小排気量」エンジンを使用した例もあるため、「排気量を大きくするためにV12」を選んだのではなく、「V12」という構造そのものに強い執着があったもよう。
その理由については明確ではなく、一般的には以下のように伝えられています。
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ただ、エンジン以外には強いこだわりがなかったようで、車体のパッケージング、ホイールやサスペンション、ブレーキについては「枯れた技術」を好んだという一面も。
「我々が販売するのはエンジンであり、車体は付属品に過ぎない」という発言からも「エンジン至上主義」を伺うことができ、「新しい技術を採用したがった」エンジニアとしばしば衝突の原因となったようですね。
なお、レイアウトについては「馬(エンジン)が車(車体)を引くのであって、後ろから押すものではない」と主張して(ミドシップレイアウトが台頭する中で)フロントエンジンレイアウトに固執し、ドラムブレーキからディスクブレーキへの移行、ワイヤースポークホイールからアルミホイールへの移行についてもフェラーリは「ライバルに対してかなり後」。
これは「そもそも自動車メーカーではなかったので開発能力が劣っていた」ことも関係していますが、エンツォ・フェラーリの「確実に有用とわかるまでは新しい技術に飛びつかない」という保守的な一面を示しており、「レースに勝つためには、まだ不安要素の残る新技術よりも、実績のある旧来の技術のほうが確実である」という堅実な考え方をも示しています。
「時代の先を行っていた」というイメージも強いエンツォ・フェラーリでもありますが、意外と「そうでない一面もあった」というわけですね。
「人を育てる」という感覚はなかった?
人材についての(エンツォ・フェラーリの)姿勢を考察してみると、「人を育てる」という考え方は持っていなかったのかもしれません。
傾向としては「すでに必要なレベルの技術を持っている」人間を引っ張ってくることが多く、そしてすでに獲得した人物の「上位互換」が現れれば容赦なく人材を入れ替えていたようで、つまるところエンツォ・フェラーリにとっての人材とは「クルマの部品同様、交換可能なパーツ」であり、そのパーツを加工したり修理したりするよりも「不要になったりより良いパーツがあれば交換する」というスタンスを持っていたように感じます。
もちろん、メンバー同士の「競争」による成長を促してはいますが、それは「人の成長」ではなく、「より良い結果」を求めたがためのもので、「成長させるよりも入れ替えた場合が早ければ」容赦なく人材を入れ替え得ていたようですね。
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なお、こういったドライな考え方については、1955年に親友でもあったアルベルト・アスカリを事故で亡くして以来、ドライバーと親密な関係を築くことを避けるようになったというう事実が背景となっている可能性が高く、息子であるピエロにも「ドライバーとは仲良くするな。いずれ彼らはいなくなってしまうから」と伝えていたことも明らかになっています。
参考までに、ドライバーがレース中に事故死あるいは大怪我をすると、その場で次のドライバーに電話をかけるなどして代わりを手配していたといい、エンツォ・フェラーリの「人」に対する姿勢は「よりいいクルマを作り、より速く走らせるための消耗品に過ぎず、代わりはいくらでもいる」というものであったのかもしれません。
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いずれにせよ、ドライバーやメカニックに関しては「自身が求める成果を達成するために」引き抜きや放出を繰り返し、役に立たないものは即座に切り捨てていますが、その一方、「工場は機械で出来ている。フェラーリのクルマは人でできている」という言葉を残すなど「人情派」っぽい一面も。
ただ、これも裏を返すならば、「フェラーリのクルマは、優れたエンジニアのみによって作られる」という意図であるとも受け取ることが可能であり、「人でできている」の真意はけして努力礼賛ではないのかもしれません。
参考までに、エンツォ・フェラーリは「IPSIA アルフレッド・フェラーリ」なる職業訓練校を設立しており、これはその名の通り亡きディーノを偲んだもので、エンツォは最新のエンジンや工作機械を学校に寄付し、生徒たちが常に「本物の技術」に触れられる環境を整えたほか、優秀な成績を収めた卒業生には、フェラーリのレース部門(スクーデリア・フェラーリ)や製造現場への道を用意しています。
これはエンジニアへの道を志したディーノの遺志を継ぐことでエンツォ・フェラーリ自身の心を救おうとしたこと、そして「貧しい家庭の若者でも技術を身につければ世界一のクルマに作れるようになる」場を与えた美談として語られることも多く、しかし実質的には「エンジニア獲得に苦労した経験から、優秀なエンジニアを他者に奪われずに囲い込む」ことを目的としたものだとも考えられます。
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この職業訓練校は現在も「Istituto Professionale Statale per l'Industria e l'Artigianato (IPSIA) Enzo Ferrari」として運営されていますが、エンツォ・フェラーリはこの学校に卒業式に姿をあらわしては「常に最高を目指せ」「情熱こそがすべてだ」と晩年にいたるまで熱弁していたそうなので、もしかするとディーノに近い年齢の若者には優しく、そして夢を抱く若者には自身の姿を重ね合わせていたのかもしれませんね。
なお、エンツォ・フェラーリがディーノを溺愛していたことはよく知られていますが、にもかかわらず「ディーノ」の名を冠したディーノ206GTを発売する際、「V12エンジン搭載車以外はフェラーリと呼ばない」としてフェラーリのエンブレム、そして名称を与えておらず、いかに息子を愛していたとしても「それとビジネスとは別」であると割り切っていた様子も伺えます。
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エンツォ・フェラーリは高い美意識を持っていた
エンツォ・フェラーリのレーシングカーにおけるトッププライオリティは「エンジン」であることは間違いなく、強力なエンジンを積んでガーンと加速すればレースに勝てるという哲学を持っており(これと真逆なのがロータスで、軽量コンパクト、そしてハンドリングで勝負しフェラーリを大いに苦しめた)、「空力なんぞは、エンジンの設計ができない奴がやるものだ」と語るなど、エアロダイナミクスに対しては軽視する姿勢を見せています。
その一方でマシンの「美しさ」には強いこだわりを持ち、市販車においては「ウイングを装着しない」、そして下品な改造を行ったフェラーリに対しては徹底的に対処するといった姿勢を示しています。
なぜ「速さ」には関係しない「美しさ」という要素にこれだけのこだわりを見せたのかについてはまったくわからないままで、しかしエンツォ・フェラーリ本人に関しても「だらしない格好」をした写真は残っておらず(晩年だと基本的にスーツをちゃんと着込んでいる)、基本的に毎日バーバーショップへ通って髪を整えていたというので、クルマのみではなく、あらゆる面において美しさにこだわっていたのかもしれませんね。
そしてこれは「良く機能するものは、たいてい見た目にも美しい」というエンツォ・フェラーリの言葉にも見て取れますが、逆に「美しくないものは、たいてい機能しない」とも考えていたのかもしれません。
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