
| こればかりは性癖と同じで自分ではいかんともしがたい |
そして性癖同様、これは他人に対してどうこう言うべきではない嗜好である
さて、ぼくは幸いにして「スーパーカー」と呼ばれるクルマを何台か所有してきましたが、実際にそれらのクルマに乗るのかというと「基本的にほぼ乗らない」。
そしてこういった事実を知った人々が口々に言うのが「そんな所有形態なのに買う意味はあるのか」ということで、これはぼくからしても「もっとも」とも言える疑問です。
そこで今回、ぼくはなぜ「乗らないクルマを買うのか」について考えてみましょう。
この記事の要約
- 乗らない、運転する気がないのではなく、乗る時間や環境が限られている
- それでも「乗らない」スーパーカーを所有するのは、心を豊かにするためである
- 人間は「非合理的」な生物である

ボクはなぜそれほどスーパーカーに乗らないのか
まずぼくが所有するスーパーカーにそれほど乗らないのは「乗る時間や環境が限られているから」。
ぼくは意外とやることが多く、常に何かをしている状態なので、まず「スーパーカーに乗る時間を作ることが難しい(つまり他のクルマやバイクにもそれほど乗ってない)」ということがあり、さらにスーパーカーとなると「天候(雨や酷暑の時は乗らない)」「知らないところに駐車しない(ボトムを擦ったりドアパンチの危険性がある)」「渋滞が予測される場合や狭い道を通る場合にも乗らない」といった制限(マイルール)が課されることとなってしまい、さらに乗る機会が少なくなるというわけですね。
逆にスーパーカーに乗る時といえば、「移動」のためではなく「乗るために乗る」ということで、つまりは運転することを目的としてクルマを出し、家から出てそのまま走り、どこへも寄らずに帰ってくることも。
こういった状況を指して「スーパーカーを所有するのはまったくの無意味」と断じられることも少なくはなく、「いつでもどこでも乗って行ってこそ真のスーパーカー乗り」というスタンスの人々からはお目玉を食らうこともしばしばです。

それでもスーパーカーを所有する意味とは
それでもぼくはスーパーカーを所有することについては意味を見出していて、なぜかというと「スーパーカーを所有することで心が豊かになるから」。
もちろんこれは人それぞれで、誰もが「スーパーカーを買ったから」といって心が満たされるわけではありませんが、ぼくの場合は間違いなくこのひとことに尽きるんじゃないかと考えています。
そして「心が満たされる」理由についてもスーパーカーオーナーによって異なるものと思われ、ある人は「その姿を眺めたり、サウンドを聞くことで満足感を得るから」なのかもしれませんし、またある人は「他人に自慢することで優越感に浸ることができるから」なのかも。
ただ、ぼくの場合は「達成感」ともいえるもの(ほかに適切な表現が見当たらない)がもっとも強く、たとえば「自分の力でお金を稼ぎ、そして自分の思う通りの仕様のクルマをランボルギーニやフェラーリに作ってもらった」という充足感で、つまり「自分はここまで来た」という証明のようなものを得たということになりそうです(そしてぼくの場合、銀行残高ではその証明として機能しない)。

人は何かしら「自分なりの」充足感を求めている
そしてこういった「充足感」「満足感」はすべての人がなんらかのシチュエーションや製品を通じて求めているのだと考えられ、そしてまた別の人にとってはその人の「満足を得られる手段」はまったく無意味なのかもしれません。
明日になってしまえば酔いが覚めるのに高価なお酒を嗜んだり。
すぐに記憶が薄れて次のところへと行きたくなるのに大枚はたいて旅行に行ったり。
そもそも、「またお腹が空くのにモノを食べる」という行為をしなくてはならないほど非効率な存在が人間なので、「失われるものにお金を払う」「用をなさないものにお金を払う」のは人間の性(さが)ともいえるものなのだとも考えられ、「乗らないスーパーカーに大金を突っ込む」のもまた人間の本質なのかもしれません。
「移動」だけを考えるならばスーパーカーでなくてもいいのですが、それを言うなら「空腹を満たすためだけならば美しく盛りつけされた美味しいものを食べる必要はなく、極言すれば生麺に粉末スープとお湯を一緒に胃に流し込めば良く(結果的にラーメンを食べるのと同じである)、しかし「そうじゃない」のが人間です。

汚れるとわかっていても白い服を来たり白い靴を履いたり。
機能的ではないとわかっていてもヒラヒラした服を着たり。
動きにくいとわかっていてもタイトでカッチリした服を着たり。
つまるところ人間とは「非合理性」にて動く生き物であり、非合理的ゆえに自身の行動に対する解を持たないのだとも考えているわけですが、その人その人は「非合理的な中にも」合理的な理由を見出しているのかもしれず、そしてそれは他人が理解し得ないものであり(他人を理解できるのであれば争いや戦争は起こらない)、他人がとやかく言う問題ではないのかもしれません。
そしてそれは性癖のようなものであり、「裸エプロン」「黒タイツ」「パンスト」など人それぞれで、それが好きな理由を説明できないのと同様、やはり「乗らない(乗れない)スーパーカーを手元においておくのも非常に説明が難しい行為です。
ただ、「乗らないスーパーカーを買う」ことに対して疑問を抱く人は少なくはなく、けしてそういった人々を納得させることができる回答をぼくは持ち合わせていませんが、次に尋ねられることがあるならば、なんとかその人が納得できる答えを探してみたいと思います。

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