| カウンタックは今でもランボルギーニの精神的支柱でもある |
東洋経済にて、”倒産を乗り越えた!「カウンタック」の神通力”という記事が掲載に。
これはカウンタックが17年も製造されたことに焦点を当て、その期間中にいくつかの(会社の)オーナーが変われども、カウンタックの製造がランボルギーニを存続させ続ける原動力になったこと、そしてなぜ1989年に生産を終了したのか、ということについて解説しています。
ランボルギーニ・カウンタックは1971年に発表され、その後に市販化。
おおよそLP400、LP400S、LP500S、クワトロバルボーレ、25thアニバーサリーといった進化を重ねて1989年まで製造されていますが(1990年説もある)、なんと言っても最大の特徴は極端なウェッジシェイプ。
そしてそのデザインを端的に表すのが、イタリアはピエモンテ地方の方言で「おどろいた」という意味の「カウンタック」であり、その命名の由来についてはカウンタックをデザインしたマルチェロ・ガンディーニ氏が”真相”を語っています。
ランボルギーニは現在までオーナーが7回も代わる
自動車メーカーとしてのランボルギーニは1964年にフェルッチョ・ランボルギーニによって創業され、同氏のもとでは350GT、400GT、イスレロ、ミウラ、ハラマ、エスパーダといったモデルたちが世に送り出されています。
ただしその後、本業であったトラクターの販売につき、大量納入の話が流れたことから資金難に陥り、さらにオイルショック、当時活発化した労働争議によって、自ら興したランボルギーニ社を売却することに。
なお、フェルッチョ・ランボルギーニが会社を売却したのは1973年で、カウンタックがデリバリーされ始めたのは1974年なので、同氏はカウンタックのラインオフを見ることなく会社を去ったということになりそうです。
そして新オーナーのもとでも経営が立ち行かなくなり、そこでランボルギーニはイタリアの裁判所管理下に置かれることになりますが、そこでも製造が続けられたのがカウンタック。
カウンタックを作ることは、「従業員のモチベーション維持」にも役立った
記事によれば、裁判所管理という厳しい状況においてもカウンタックの生産ができたのは「内製率が高く、製造コストが安かった」からだと述べています。
当時のイタリアだと、デザインはデザインハウスに、ボディの製造はカロッツェリアに委託するというのが通常で、しかしこの「通常」のやり方でカウンタックを製造すると、そのコストは同スペックを持つフェラーリの2倍程度となってしまい、そこでカウンタックの設計者(ミウラの生みの親でもある)パオロ・スタンツァーニが考えたのが「ボディの内製化」。
その頃はボディの内製化を自動車メーカーが自社で行うのは「無理」だと言われていたそうですが、これを実現することでカウンタックは製造コストを下げることが可能になったというわけですね。
そして、そういったコストの安さもあって裁判所管理下でもカウンタックは生きながらえることができ(製造コストが高ければ、再建の足かせとして真っ先に切られていたと思う)、「カウンタックを生産している」という事実が、職人はじめランボルギーニ従業員のプライドを支えた、とされています。
なぜカウンタックは生産を終了せねばならなかったのか
その後ランボルギーニはミムラン、クライスラーへとオーナーが変わるものの、そこでも作り続けられたのがカウンタック。
クライスラー下では後継モデルであるディアブロへとバトンタッチすることになり、この過程において「1989年で生産を終えたのには理由がある」と記事では述べており、それは”欧州にて、市販車として販売ができるホモロゲーションが切れる寸前だった”ため。
これによってカウンタックは生産を終了することになるわけですが、その魂は現代に至るまで受け継がれ、「シアンFKP37」ではそのテールランプに、カウンタックで採用されていた”6連発光エレメント”が採用されています。
こういった歴史を見るに、カウンタックはいかなる苦境下にあってもランボルギーニを経済的そして心理面でも支えてきたということがわかり、かつそのエンジン(V12)やレイアウト(縦置き)、ドアの開閉方法(シザースドア)など、のちのランボルギーニのイメージを形成したクルマでもある、ということを知ることができます。
おそらくは今後いかに時間が経過しようとも、ランボルギーニが存続する限りは「カウンタックが忘れ去られることはなく」、永遠にそのスピリットが生き続けることになりそうですね。
参照:東洋経済