| ボクは人生で一度も「暇」だと感じたことも、「暇」を持て余したことはない
さて、ぼくの人生には何度か転機が訪れていて、ここ最近の転機について触れてみたいと思います。
まずは2015年ですが、この年にぼくは椎間板ヘルニアの手術を受け、三週間ほど入院しているわけですね。
けっこう症状は重く、数ヶ月にわたり歩行不能状態に陥ってしまい、手術によって回復した現在でも一部後遺症が残っていて、しかし問題は椎間板ヘルニアを患ったことではなく、手術の際の「三週間の入院生活」。
一時は人生を諦めざるをえなかった
この椎間板ヘルニアについては「歩行不能」となったくらいなのでかなり重く、そのためにぼくはそれまでの人生で築いたものの多くを失うこととなったわけですが、入院するにあたってさらにぼくは多くのものを「精算」しており、新鮮な気持ちで入院に臨んだわけですね。
ちなみに手術自体は「失敗」の可能性もあり、もしかすると麻酔から目覚めない可能性や、2度と歩けなくなる可能性も少なからずあったものの、成功すれば、退院する際には新しい人生を歩むことなるだろう、という期待を持っていたのもまた事実。
そしてぼくは退院後に新しい人生を歩むため、入院中に習得すべきことを事前にまとめておき、それらの準備を整えて入院し、手術後に目覚めると同時に学習を開始したわけですが、その際に習得した技術が現在のぼくの生活の一部を支えている、ということになります。
多くの人は三週間も入院し、しかも脊椎を手術して動けない状態でベッドに括り付けられていれば「暇で暇で仕方がない」と思いますが、ぼくは新しい人生のためにその三週間を使ったわけですね。
そう考えると、椎間板ヘルニアによっていろいろなものを失ったこと、三週間の入院は「神様がくれた特別休暇のようなもの」だったんだろうな、と今では考えています。
もし椎間板ヘルニアにならなかったら、そして入院生活を経験することがなかったら、今でもぼくはぞれまでと同じ生活を何も考えずに過ごしていたはずで、なんらかの人生の変化に対する準備ができていなかったのかもしれません。
ですが、今のぼくはいかなる事態が発生しようとも(たとえ今後身体の自由を失ったとしても)耐え抜くだけの自信と準備があり、それは2015年の入院生活によってもたらされたものであって、それはパウロ・コエーリョが「アルケミスト」で記した一節に集約されています。
人は、自分の必要と希望を満たす能力さえあれば、未知を恐れることはない
ずっと以前に付き合っていた彼女が「あなたと将来ずっと一緒にいるとして、お金のことを心配したことはないの。どんなことをしても必要なお金を稼ぐ人だから」と言ったことがあり、今になって「あのとき彼女が言っていたのは、こういうことだったんだな」とようやく気づいた次第です。
コロナウイルスの影響による外出規制もまた、ぼくにとっては「人生を変えるための猶予期間」だった
そしてもうひとつの転機はつい最近の「2020年のコロナウイルスによる外出規制」。
この期間にはどこにも出かけることがなく、ぼくは「今までやろうと考えていたものの、時間がなくてできなかったこと」を始めたわけですね。
サイトのメンテナンスとそのための技術習得、ユーチューバーとしてのスタートもその一つですが、とにかくぼくはこの時間を椎間板ヘルニア手術時の入院期間同様、「神様がくれた特別休暇」と捉え、今後の人生をより良くするために使うと決めることに。
ぼくは人を判断するには、その人に「時間」を与えればいいと考えていて、与えられた時間にて何かを始める人(何もやることを指示しなくとも、自分で何かを探し出して何かを作り出すことができる)、そしてその時間で何もしない、もしくはできない人(指示がないと何もできない、人から何かを与えてもらわないと生きていけない)、さらに人の時間を浪費する人(自分が何もすることがないからと、他の人を巻き添えにして暇つぶしをする、もしくは他人に娯楽を要求する)の3つに分かれると考えています。
もちろんぼくは最初のパターンであり、これまでの人生で「暇」だと感じたことが一度もないタイプ。
そして外出規制中にやろうとしたことのいくつかは達成でき、いくつかは進行中ではあるものの、これらのうち「いくつか」は今後のぼくの人生を大きく変えることになるであろう試みであり、その意味では2020年はのちに自分の人生を振り返った時、大きなターニングポイントであったと思い起こすことになりそうです。