自分が見ていないところでも多くの動物は死んでいる
一緒に生活していた動物を失った場合、その悲しみを再び味わうのがいやで「もう二度と動物とは暮らさない」という人を多く見たり、聞いたりします。
動物を失うのはわが身を切り裂かれる以上に辛いものですが、ぼくの場合はちょっと違うのですね。
動物はこうしている間にも、どこかで次々と生まれ、死んで行くわけです。
そうやって知らないところで生まれた動物を自分の家族とするかそうでないか、ということだけであって、その動物が死ぬのもまた自分の家族として死ぬか、生まれたことすら知らない存在のままどこかで死んで行くか、という違いだけです。
いつかやってくる別れのとき、後悔しないようにすることのほうが重要だ
ある猫が縁あってぼくと暮らすことになり、そして死んで行くのは当然辛いことです。
ですが、知らないところでは、知らない猫がたくさん亡くなっているのも事実です。
ぼくの家族だと悲しいけれど、ぼくの家族でなく知りもしない猫であれば悲しくは無い(存在すら知らないので悲しみようが無い)。
失うと悲しいから家族にしたくない、ということは、知りもしない猫が多々死んでいることから目を背けることになるかもしれない、と考えたりするのですね(あくまでもぼくの考え方であって、他の考え方をする人がいることも知っているし、それを尊重したいとも考える)。
また、上にあげたように悲しみというのは相対的(対象があって初めて発生する )とも言えるものであり、またある側面では 「動物を失った自分がかわいそう」という自己憐憫の側面も含んでいるかもしれません。
そして相対性を取り除くことは不可能だと思いますが、自己憐憫という主観的な感情を取り除いた場合、そして猫の立場という客観的な視点に立った場合「失うのが辛いので」という考え方が無くなるかもしれません。
なので、ぼくが知っていても知らなくても、どこかで生まれて死んで行くという事実が同じならば、少しでも多くの猫を幸せに出来ればいいな、と思うので、ぼくは”失うのがつらいから家族にしない”とは考えないのですね。
失う悲しみよりも、一緒にいる時間にどれだけの幸せを共有できるのか?
悔いの残らないように一緒に過ごし、死んでしまったときに涙を流しながらも「良かったね、もう苦しまずに天国で好きなものを食べて遊べるね」と言えるように充実した毎日を送るようにするのか?
ぼくには、そのほうが遥かに重要なわけです。
一緒に過ごすことができる幸せを、失うことの辛さと引き換えにはしたくない、と考えるのですね。
車を購入する前から壊れることを気にして「結局は買わない」ようなことはしたくありませんし、それと同じ考え方であります。
命あるものが命を失うこと、形あるものが壊れること、美しく開いた花が枯れてしまうことは既定の事実であり、しかしその事実を恐れるのであれば、ぼくらの人生そのものも挑戦というものがなくなってしまうことに。
また、動物が死んでしまうことを「星になる」とよく表現されたりしますが、それもぼくの場合はちょっと違います。
死んでしまっても、星にはならないというか、なってほしくない思うのですよね。
だって星になったら、生まれ変わって戻ってくることができないじゃないか、とぼくは思うのです。