
| AIと人間はそれぞれの得意分野が異なり、お互いが補完する存在だと考えている |
ただしすでに「AIに取って代わられた」人がいるのも確かである
さて、ここ最近話題となっているのが「AI」。
ぼくも様々な局面においてこのAIを活用しており、それと同様にぼくの周囲でもほとんどの人がAIツールを利用しているのですが、そんな状況の中で最近感じるのが「AIの登場が、人間を”AIの下”と”AIの上”とに分けるようになった」ということ。
これは「AIを活用している人とそうでない人」というくくりではなく、「AIを活用している人」の間で起きていると感じる現象です。
AIはある意味でその人の思考能力を奪ってしまう
ぼくがそう感じるのは主にビジネス上においてですが、ことビジネスにおいてAIは非常に優秀。
翻訳に始まり文章の作成や校正、さらには調査(情報収集)やまとめ、対策の立案にプレゼン資料まで作ってくれ、それを音声にしたりすることも可能です。
よって多くの人がこのAITツールを活用して業務を効率化しているというのが現状なのですが、AIはネット上にある情報を収集することに長けてはいても、「ネット上にない情報」は集めることができず、かつ主観的な判断ができないという特徴も(ただしそう遠くない将来に主観的判断を下せるAIも出てくるであろう)。
たとえば「こういった業務に最適なカメラを教えて下さい」とAIに尋ねれば、様々なメーカーのカメラを比較して一覧表を作成し、オススメの機種を教えてはくれますが、そのカメラを使用する人の具体的な目的、スキルなどは(いかにAIに学ばせても)それを正確に推し量ることはできず、結局のところ「どの機種を選ぶか」は最終的に(AIによる判断ではなく)その人が決めるのが”正しい”流れだと考えています。※一方、自分が全く思いい至らなかったことについて教えてくれることがあるので生成AIはやはり有用である
つまるところ、AIは「効率よく情報を集めて分析してくれる」ツールではあるものの、その分析した結果を判断しどう活かすのかは「人間」というわけですね。
「AIを使い始めたばかり」の人はAIに依存する傾向がある
ところが最近、AIにて情報収集と分析、資料作成を行わせることを覚えたばかりの人だと、その(AIが作成した)資料を見せて「自分はAIを使いこなしていてスゴいだろう」感とともにそれを”そのまま”提案してくることが少なくはなく、しかし上述の通りAIは「客観的」であって「主観的」ではなく、収集し分析したのは「断片的に得た限られた情報」から。
上の例でいえば「おすすめのカメラ」の情報をうまくまとめてはいるものの、そこには人による主観的な意見や判断は含まれず、見るものが見れは「AIが作った資料」ということがすぐにわかってしまうわけですね。※かつ、AIが収集し生成したものが正しいとも限らない
かつ、「過程」を飛ばして「結果」に飛びついているために自身の(その案件に関する)理解度が低いままで、自身の知識向上に結びつかないという課題もあり、「AIのみに依存する」のは非常に危険で、自身の価値をも失ってしまう可能性も出てきます。
よって、ぼくとしては「AIを使用し、こういった条件にて、おすすめカメラを選定しましたが、自分の経験値、使用する環境や人物を考慮するに、この機種が一番オススメです」といった感じで自分の”判断”をその提案に盛り込むことが重要であると考えています。
これは言い換えると「自分の代わりにAIに仕事をさせる」のではなく「自分の業務効率を上げ、より幅広い可能性を模索するためにAIを使う」かどうかということになり、前者だと「自分で自分の存在価値と存在意義を放棄している」「自分の思考を停止している」、後者では「AIを活用し自身の可能性と限界を押し広げている」ということになるのかも。
AI全盛を迎えようとしている中、「人間」の意味とは
ぼく自身はテクノロジー大好き派なのでAIやロボットの普及はウエルカムなのですが(AIの危険性や人間の尊厳について主張するつもりもない。将来的にはAIと人間との境界がなくなるとも考えている)、それでも今のところ人間には人間の価値があるとも考えていて、実際のところこれだけ撮影機器や編集ソフトが充実している中でも「写真家」が存在し、アプリによって誰でも手軽に音楽を制作できるようになったとしても「音楽家」が存在する理由は”そこにある”と認識しているわけですね。
さらに、AIによって得られた成果物を見るのもまた「人間」であり、そして人間は感情による生き物なので「インプットに対するアウトプット」が一様ではなく、そしてそういった不安定かつ曖昧な人間という生物が見たり聞いたりする制作物に「AI”のみ”によって作られたもの」を採用したとしても、人の心を動かすことは難しいのかもしれません(しかしやがては、AIも”人の心を動かす”方法を学ぶだろう)。
たとえば「フェラーリよりも速いクルマ」は具体的な数値を達成することで作ることができますが、「フェラーリよりも美しいクルマ」は客観的に判断することができず、誰もがそう思うクルマを作ることは難しいんじゃないかということですね(たとえば、黄金律を最大限に盛り込んだとしてもそれが美しくなるかどうかは別問題で、美しさは理論を超越している)。
結局何が言いたいかというと、AIを使用して得られたものに満足するだけの人は「AI以下」であり、AIによって得られた情報や成果物を駆使して自分の限界を押し広げようとする「AI以上」の人間にならねば今後「その人の価値はなくなるかもしれない」ということ。
さらに「AIにはAIの」「人には人の」得意な領域があり、それらを理解して最大限の効果を得られるようにしないとAIを活用しているとは言い難く、そしてAIもどんどん進化するので「お互いの得意な領域」も日々変化するものと思われます。
それでも当面は(なにも考えなくても良くなるまで)AIに頼り、自身の思考と成長を自分自身で停止させるようなことがあってはならないわけですが、これはクルマの運転についてであっても、現代のクルマのように「運転支援が発達してしまうと」ドライバーが考え、注意を払い、自身で操作する範囲が”一昔前のクルマとは”全く変わってきていることからも理解ができるかもしれません(最新のクルマを運転し慣れ、たまに古いシンプルなクルマを運転すると、いかに自分が最新の技術に依存していたかを痛感することがある)。
いずれにせよ、AIの活動領域が人間の分野にどんどん入ってくることは間違いなく、そしてAIは人間よりも多くのことをうまく行ってくれるので、ぼくらは今後のビジネス界を生き残るに際し、自分のあり方を考える必要があるだろう、と考えています。
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