■駄文(日々考えること)

ボクは「地位や名誉や肩書」は気にしない。それよりも「無印」の自分自身で何ができるのか、肩書がなくても何かを成し遂げることのほうが重要である

ボクは「地位や名誉や肩書」は気にしない。それよりも「無印」の自分自身で何ができるのか、肩書がなくても何かを成し遂げることのほうが重要である

| つまるところ、ぼくは他人のことを気にせず、自分自身のことしか考えていないのだろう |

そして「自分が納得できればすべて良し」という自分勝手な人間でもある

唐突ですが、ぼくは「(自分の)地位や名誉や肩書」は一切気にしないタイプです。

むしろそういったものは「自分を縛り、動きにくくさせてしまう」だけだと考えているために不要だとも捉えていて、よってぼくは名刺にも肩書などは基本的に入れないようにしているわけですね(ただ、世間一般ではそれが受け入れられず、肩書がモノをいうこともあるので、肩書入りの名刺もある)。

「肩書を失ったとき、なにもない」人間にだけはなりたくない

しかしながら一般に日本だと肩書が好まれる(重視される)傾向にあり、「なんとか株式会社のなんとかいう役職」に重きが置かれ、それは「本人」「周囲」両方にとっても同じかもしれません。

ただ、会社が潰れて失業したり定年退職してそういった「会社や役職」を失ってしまい、「単なるなんとかさん」になってしまったとき、「肩書がなければなにもできない人」「肩書がなければ誰からも見向きもされず尊敬されない人」が出てくるのも事実であって、ぼくはそういった人にだけはなりたくない、と思ってここまで生きてきています。

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逆に、所属や役職を名乗らなくとも、その立ち振る舞いや言動をして「あの人は自分では何も言わないけど、いっぱしの人物なんだろうね」と思われる方が人としての価値があるとも考えており、つまるところぼくが目指すのは「そういった人(実際、そうなれたかどうかは別問題である)」。

なお、肩書によっては「こうでなくてはならない」「こうすべきである」、あるいは「それはすべきではない」という既成概念がつきまとうことも否めず、肩書によっては「できなくなる」ことも出てくるため、それはそれで窮屈な思いをすることになるのですが、いろいろな意味でぼくにとっての肩書は「まったくいらないもの」というわけですね。

重要なのは「自分が自分に納得できること」である

さらにぼくは「地位や名誉はあとからついてくるもの」だとも考えており、つまり地位や名誉は「それを得るためになにかをするものではない」ということ。

重要なのは何かを成し遂げ、それによって地位や名誉を得なければ意味がないということで、しかしそれでも地位や名誉が得られなかったとしても、「自分は一定のことを成し遂げたのだ」という充足感や達成感を得ることができたのであれば、それは(他人から見えないとしても)自身にとって十分な栄誉を勝ち取ったと考えていいのだ、と思います。

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ぼく自身、よくも悪くも自分のことしか考えない、他人のことを考えることができない人間ではあるのですが、そういった性質から「地位も名誉も不要」という考えに至ったのだと推測しており、他人が自分を推し量る手段としての「地位と名誉」よりも、自分が納得できるかどうかが一番重要だとも考えていて、要は「他人の目や評価を気にするよりも、自分自身を誇れるかどうか」。※自分自身を誇れなかったり、自分自身を偽らなくてはならないようでは、自分の人生を生きたとは言えない

そして「地位や名誉や肩書」は所属や環境によって失われる可能性があるものの、自分を信じる力としての「自信」はどこへ行っても失われるものではなく、ぼくとしては「地位や名誉や肩書よりも、自分自身を信じたい」と考えています。

どうすれば自分を誇れるようになるのか

参考までにですが、ぼくはビジネス上において「2つ」自分が誇れる業績を残していると自負しているのですが、私生活において自分を誇れると思ったのは過去に3度。

一度目はポルシェ・ボクスターS(986)を新車で注文し、自分が指定した仕様にて「ポルシェに作ってもらった」という事実を実感したとき。

もうひとつはランボルギーニ・ガヤルドLP560-4を購入し、ついに「スーパーカーを購入した」こと。

そしてもっとも新しいものは「フェラーリを新車で注文し、やはり自分仕様の一台をフェラーリに作ってもらった」ことで、いずれもクルマばかりではあるものの、これらはぼくの人生における大きな転機だと捉えています。

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参考までに、ぼくの一族のほとんどは公務員(警察官が多い)で、両親はついに最後まで「借家住まい」という環境で育っており、貧乏ではなかったけれど裕福でもないというのがぼくのバックボーン。

よって実家からの援助もなくやってきたわけですが(父の退職金から100万円分けてもらったくらい)、よくここまで来たなと思うと同時に、「まだまだこれから」だとも考えています。

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  • この記事を書いた人

JUN

2013年より当ブログを運営中。 国産スポーツカー、ポルシェ、ランボルギーニ、フェラーリ等を乗り継ぎ現在に至ります。 単なる情報の記載にとどまらず、なにかしら自分の意見を添え、加えてクルマにまつわる関連情報(保険やメンテナンスなど)を提供するなど「カーライフを豊かにする」情報発信を心がけています。 いくつかのカーメディアにも寄稿中。

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