そもそもなぜ非正規雇用が増えるのか
非正規雇用がなんとか、と政治家は言うのですが、そもそも非正規雇用が増える原因は何か、と考えたりします。
簡単に言うと正規雇用社員は解雇しにくく、非正規雇用は解雇しやすい(実際はそうとはいえないのですが)、ということです。
現在、経済は流動的で、企業としてはリスクヘッジのために正規よりも非正規雇用(業績が悪化すれば解雇しやすい)を選ぶ傾向にあります。
ただ、契約社員は本来「臨時で生じた」業務を行わせるために雇うもので、「解雇しやすい」労働力として雇用するのは本末転倒とは言えますね。
日本では従業員の解雇が難しい
日本の会社において、正社員を解雇するというのは非常に難しく、これは労働者が過剰に保護されている(労働者は権利を主張できる)ことが理由で、一回雇ってしまうと解雇できないという現状があるわけです。
本来「弱いもの」を保護するための法律が現状と乖離してきて弱者の「過剰保護」になっている場合があり、現在問題となる「モンスター消費者」のように、消費者や労働者をあまりに保護するあまり、本当に(日本経済のことを考えると)保護せねばならない企業の保護がおざなりになっているのかもしれません。
企業は本来もっとチャレンジングな活動を行い、その結果として利益を得て、それを労働者に還元すべきと考えるのですが、現在企業は様々な規制にがんじがらめにされており、思うような活動ができない状態と言えそうです。
国民全員が評論家となった今、TVで芸人がなにか言うとそれに様々な解釈がなされて本来とは異なる方向へ話が向き、結果として職を失ったりするのと似ているかと思います。
クレームで番組が打ち切りになったり内容が変更になったり、というのも同じですね。
教育者が、悪いことをした子供を叱ったとしても、その方法によっては教育者が悪者になってしまうことも(ときには本当に悪い場合もありますが)。
とにかく何かをすればリスクが付きまとうのが今の日本であり、「何もしない」のがベストな選択肢ではないかと考える人が増加してもやむを得ない状況になっているのかもしれません。
企業もそれと同じで(いったん不景気を経験しているだけに)保守的になってしまい、その結果として日本経済を弱体化させており、やむなく非正規雇用に走っているという現象が発生しているとも考えられます。
労働者や消費者を保護するあまりに企業の体質が弱くなり(もしくは企業が人材の積極採用と投資ができなくなり)、その結果として労働者と家計にまたシワよせが来る、という負のスパイラルがここにあるわけですね。
たとえば日本は平等や弱者ということをやや履き違えている傾向があり、「出来るものも出来ないものも等しく扱う」ことを平等としますが、本来の平等とは「出来るものはそれにふさわしく、出来ないものもまたそれにふさわしく」、つまり人によって対応は変えるべきだとぼくは考えています。
歩行者が信号無視をした場合でも、車のほうが悪者になってしまう
交通弱者に対する考え方も同様で、「車と歩行者」であれば歩行者の方が物理的に弱いから歩行者が信号無視をしていても歩行者を保護すべき(信号無視ではねられても車が悪い)という考え方があり(最近の判例ではそれが覆るものもありますが)、運悪く信号無視した自転車をはねてしまった(どんなに注意していても回避できなかった)場合でも自動車のほうが圧倒的に不利な立場にはなってしまいます。
法を守っていたとしても、法を犯した方が交通弱者であれば、その交通弱者が保護される、ということですね。
それと同じで、「勘違いした平等」を重視するがために過剰に労働者を保護している現状があるので、日本では労働者が現状に甘んじて「自ら起業しよう」という精神が育たないようにも思いますし、これが企業の体質を弱くしたり国際競争力を低下させているのではないかと思うのです。
ぼくとしては、もっと労使関係についてはドライにすべきであると考えており、労働者は自分の能力を会社に「買ってもらう」、会社は労働者の能力を「買う」という感覚で雇用契約を結ぶべきで、労働者はより良い条件で自分を買ってくれる環境を探したり、企業は求める能力がなければ労働者を解雇できるようにする、というような緊張感も必要なのではないかと考えるのですね。
加えて、労働契約とは別の話ですが、法人税率はもっと下げるべきで(現在はそういった話も出ていますが)、この法人税率引き下げと雇用契約の見直し(ホワイトカラー・エグゼンプション含む)によって企業を保護し、生産性を引き上げることが、国際競争力の強化に必要ではないかと考えています。
つまり、労働者と消費者を過剰に保護しても日本経済は回らないんじゃないかと考えるわけです。
※もちろん正当な保護は必要で、「過剰」な保護、企業活動を妨げるような保護は不要ではないか、ということ
※政治家は企業を保護する方針を打ち出すと当選できないので、個人を保護する方向に動いているとも思われる
現在、産業の構造の変化に法整備が追いついていない
ここでの論点は「ブラックやむなし」「労働者は権利を主張するべき」ということではありません。
経営者は決められた賃金や手当をしっかり払うべきであり、労働者はそれを受け取る(不足があれば請求する)権利がある。
ただし労働契約とはお互いの需給に基づいて正しく行われるべきもので、とりあえず雇用契約を結んで適正を見ながら配置転換したり、それでも使えなかったら閑散とした部署へ異動、という労働力と企業側双方の資金や時間の無駄遣いをやめるべき、ということです(双方にとって時間と労力を浪費することになり、場合によっては不満が募り関係が悪化する場合も)。
基本的には企業の競争力の向上、それによる国力の強化という観点です。
ただし企業や労働者はこれによって何かの犠牲を払うべきではなく、今問題なのは企業でも労働者でもなく、日本の近代化における段階でのいびつな労働契約の自由の制限や、1916年制定の工場法の延長線上にある現代の労働基準法が企業や労働者の権利を逆に制限している、とぼくは考えるのですね。
工場法が制定された時、日本は高度経済成長の中にあり、そして工場の生産性かは「労働時間×労働力」となります。
その場合、労働者の権利を考えると労働時間と時間外労働に関する法律を定めるのは極めて妥当。
工場は労働時間に応じた成果を得ることができるので、そのぶん働いた労働者は報酬を受け取る権利があります。
ただ、現代では工場は相当な割合で海外に移転したり委託生産を行っており、日本の経済における「工場」の生み出す経済規模は小さくなっているのも事実(工場の海外移転によって”商社化”した工場も多い)。
となると、そういった企業で働く人々の成果は「単純に」時間とは言えなくなるわけですね。
営業職を考えてみると、営業した時間がイコール成果ではないわけです。
いかに頭を使ったか、が営業職における成果であり、ここに過去に定められた労働基準法を当てはめるのは少し違和感があるかもしれません。
よって労働者(ホワイトカラーの場合)は仕事をしなくてもその時間だけ会社にいれば給料をもらえたり、解雇されそうになっても「解雇権の濫用」を主張して会社に居座ることや、余分にお金をせしめることもできるわけです。
日本の法律はもともと独仏の憲法を基本としていますが、戦後は英米法の導入がなされたのでそこでも妙なズレがあり、その後に日本は未曾有の経済発展を遂げ、さらにその後の「失われた20年」の過程で経済の構造が根本から変わっており、しかし法整備が追いついていない、というのが現状かもしれません。
そういったところが原因で労働者と使用者、歩行者と車といった「見かけだけ」の強弱によっての保護を行うこととなっており、「歩行者が信号無視をした」という基本的な部分(そもそも悪いのは誰?)についてはほぼ議論がなされないようになっているのかもしれない、とぼくは考えるのです。
今は企業や使用者(教育者にとっても)にとってのリスクがメリットよりも大きくなりつつある時代で、大きなチャレンジができなくなっています。
本当の弱者とはなにか、本当に保護すべきは何か。
そういった事実を見落とすと、モンスターペアレンツやモンスタークレーマーが跳梁跋扈し、取り返しのつかない事態になると思うのですね。