| ここまで方針が明確で、推進力と権力を持った人物は他にいなかった |
ポルシェ創業者一族にしてポルシェ創業者の孫、さらに前フォルクスワーゲン会長、フェルディナント・ピエヒが82歳にて亡くなった、との報道。
8月25日に夕食を摂っている最中に倒れ、翌26日に亡くなったとされており、しばらくその死が伏せられていたということになりますが、現在もその死因は公表されていません。
なお、ポルシェ一族であるのに姓が「ポルシェ」でないのは女系一族だからで、母はポルシェ創業者であるフェルディナント・ポルシェの娘であるルイーゼ。
そのルイーゼがアントン・ピエヒ氏と結婚してルイーゼ・ピエヒとなり、その後に生まれたのがフェルディナント・ピエヒということになります。※アウディ・ジャパンから出された追悼コメントはこちら
ポルシェに入社しながらも、ポルシェを出ざるを得なくなる
フェルディナント・ピエヒは1937年に生まれ、自動車業界におけるキャリアとしては、1963年のポルシェ入社からスタート。
最初に手掛けたプロジェクトはレーシングカーの「906」で、他にも904、908、910、917といったレーシングカー設計に関わるなどその手腕を発揮していますが、ポルシェ社内において、ポルシェ一族の影響力は強くあるべきではないという一族の決定に従いポルシェを退社して1972年にアウディへ。
かなり好みがはっきりしていた人のようで、まずは「5気筒エンジン」に強い興味を持ち積極的に開発したことで知られ、メルセデス・ベンツ在籍時にも5気筒エンジンを研究したほか、もちろんアウディではこれを実用化しています(今でもアウディは5気筒エンジンを使用している)。
そのほか4WDシステム「クワトロ」もフェルディナント・ピエヒ主導によって開発されたもので、これによるモータースポーツでの貢献、現時点でのアウディブランド構築におけるクワトロの重要性は誰もが知るところ。
その後は1988年にアウディ取締役、1993年にはフォルクスワーゲン会長職へ就任し、2005年に監査役に退くも2012年にはポルシェを併合。※2015年まで監査役会長を努めた後にリタイヤ
1970年代にポルシェを去る際にどういった気持ちを抱いていたのかわかりませんが(自身の一族が興した会社を去るので、納得はできなかったと思う)、一度は去った会社を傘下の収めるというのは「スターバックス」「アップル」のような話でもありますね。
フェルディナント・ピエヒ氏は「ハイパワー」志向
そして同士が強いこだわりを発揮したのは「5気筒エンジン」「クワトロ」だけではなく、「ハイパワー」も同様。
2002年までフォルクスワーゲン会長職を努めますが、在任中に買収したブランドはランボルギーニ、ブガッティ、ベントレー等。
いずれも大排気量を得意とするブランドで、これらのブランド内において積極的な展開を行うのみではなく、アウディでは「アヴス・コンセプト」や「ローゼマイヤー」といったスーパーカープロジェクトを主導しています(いずれも市販に至らず)。
そのほか、フォルクスワーゲンでは「フェートン(2002)」を発売にまで導いたのもフェルディナント・ピエヒ氏。
フォルクスワーゲンなのに「12気筒エンジン(W12)」を積んだ超高級車で、もちろん予想通りに売れず、発売開始直後でも年間予定販売台数に対し1/4以下という状況(こんな思い切ったクルマは、フェルディナント・ピエヒ以外が進めようとしても社内で受け入れられたとは思えない)。
しかしながらこのフェートンは、多数の不振モデルが生産中止となったディーゼルゲート以降もなぜか生き残ることになり、実に14年にわたり販売されていますが、ようやく販売終了したのが「フェルディナント・ピエヒがVWグループを去った後」であることを考えると、フェルディナント・ピエヒのキモ入りを、在任中には販売中止にはできなかったということ、そしてそれくらい同氏はグループ内では絶対的な存在であったことも推測できます。
そのほか、ブガッティ・シロンを登場させたのもフェルディナント・ピエヒで、「大排気量+ミドシップ+4WD」には格別の思出入れがあったようで、それはコンセプトカー含め数々のエポックメイキングなモデルを登場させていたこともわかります。
そして、同氏亡き後はここまでの影響力や推進力を持つ人物は不在だと思われ、となるとフォルクスワーゲングループ各ブランドにおいて、「思い切った」モデルが登場することも無くなってくるのかもしれませんね(同氏のツルの一声がなくなり、事なかれ主義になる可能性)。