| それでも世界中に名を轟かせたのは、ひとえにモータースポーツにおける成功があったからだろう |
フェラーリは、今も昔も「レースをするために市販車を販売」している
さて、「フェラーリの進化」なる動画がYoutubeへと公開。
全部で3編がアップされていますが、その内容をかいつまみ、今回はその「パート1」について説明してみたいと思います。
まず、フェラーリ創業者であるエンツォ・フェラーリは1920年代にアルファロメオのワークスドライバーとしてキャリアをスタートしており、しかしウーゴ・シヴォッチ、アントニオ・アスカリという同僚を事故で失ったことから、自身でステアリングホイールを握ってレースに参戦することをやめ、かわりにはじめたのが「レーシングチームのマネジメント」。
初期のフェラーリは不運続きだった
その後1939年にはアルファロメオを去り、自身の会社として「AUTO-AVIO COSTRIZIONI(アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ)」なる会社を興しており、これはアルファロメオを去る際、「4年間は”フェラーリ”の名を冠したレーシングカーを作ってはならないという契約を守ったためだと言われます。
話は前後しますが、エンツォ・フェラーリは、アルファロメオにて働いていた頃にも自身の名義を使用した会社を設立していて、1924年には「カロッツエリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ(アルファロメオの販売代理店)」、1929年には「ソシエタ・アノニマ・スクーデリア・フェラーリ(アルファロメオのセミワークス)」を立ちあげており、アルファロメオはエンツォ・フェラーリの勢力が拡大するのを恐れたのでしょうね。
そのため、最初にこのアウト・アヴィオ・コルトルツィオーニにて生産した「815」は、エンツォ・フェラーリによる設計であったにもかかわらず「フェラーリ」の名を掲げることが出来ず、そして製造されたのは「わずか2台」。
その後第二次大戦に突入し、アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニは自動車ではなく兵器製造のための工作機械等を作らざるをえなくなりますが、ここで工場が空爆によって破壊されるという悲運に見舞われ、これが理由で工場をモデナからマラネッロへと移転させることとなっています。
その後アルファロメオとの契約から解き放たれ、ようやく1944年には自身の名を冠した社名「スクーデリア・フェラーリ・アウト・アビオ・コストルツィオーニ」を名乗ることができ、はじめて「フェラーリ」という名が与えられたクルマ、125Sを1947年に発売することになり、このとき、自動車製造メーカーとしての”フェラーリ”が誕生したわけですね。
そしてこの125Sは1.5リッターV12エンジンを持ち、その出力は150馬力、0−100km/h加速は10.8秒、最高速は210km/h、そして製造されたのは2台のみ。
1947年には14のレースに参戦し、うち6つで入賞したというので、なかなかの性能を持っていたと考えて良さそうです。
参考までに、フェラーリの「跳ね馬」エンブレムについては、1924年の「カロッツエリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」設立の前の年、1923年に開催されたチルキット・デル・サヴィオにて優勝を飾った際、その勇猛果敢な走りがイタリア空軍の撃墜王、フランチェスコ・バラッカ(戦死)の母親の目に止まり、「息子の姿と重なるようだ」として、息子の愛機にペイントされていた跳ね馬の紋章(ポルシェの本拠地、シュトゥットガルト市の紋章でもある)を母親から”ぜひ使って欲しい”として授かったものだとされています(つまり、フェラーリが設立される24年も前から使用している)。
これについては諸説ありますが、フェラーリ・ワールドにもそのように記載され、フランチェスコ・バラッカ機(レプリカ)が展示されているので、これが「通説」だということになりそうですね。
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フェラーリはモータースポーツと市販車販売ビジネスをうまくリンクさせた
なお、こういった流れを見ても分かる通り、エンツォ・フェラーリはもともとレーシングドライバーであり、そしてレーシングチームのマネジメントを手がけ、そしてレーシングカーを作ってきましたが、1947年にはフェラーリを設立し、ここではレーシングカーをベースにした市販車の販売を始めることになった、というのがここまでの状況。
そしてこの市販車の販売については、自動車製造業としての会社を大きくしたかったわけではなく、レースに参戦するための資金獲得を目的としており、これは今日でも同じです。
よって、現在でもフェラーリにたくさんお金をつぎ込んでくれるお客=スポンサーという認識があり、そのためにフェラーリは「たくさん台数を購入してくれる人」「1台あたり、たくさんオプションを付けて利益を落としてくれる人」を優遇しているわけですね。
そして同時に、フェラーリはクルマを売るための広告活動を(本社としては)行わず、というのも「レースで勝つことが最大の宣伝である」という信念を持っていたためで、「フェラーリ・ネバー・アドバタイズ」というのがひとつの信念です。
果たしてフェラーリはそうやって市販車の販売を始めたわけですが、1950年代に入るとF1はじめル・マン24時間レース、そのほか世界の名だたるレースにて好成績を納め、その名声を轟かせることでまたたく間に「セレブ御用達」に。
そしてフェラーリはあっという間に世界中にて愛されるようになり、そこでエンツォ・フェラーリが言い放ったのが「だれもがフェラーリをドライブしたがる。これは最初から意図していたことだ」。
そして「誰もが」というのは、一般人のみならず「レーシングドライバー」も指していたのかもしれませんね。
その後フェラーリは市販車ビジネスが「有用」と踏み、(より一般的な)GTカーセグメントに進出することになりますが、まずはロングドライブもこなせる「166インター」を発表し、これは38台が製造されたといわれます。※もともとアルファロメオのディーラーを経営し成功を納めていたと言われるので、エンツォ・フェラーリには商才があったようだ
そして1950年には1965インター(28台)と続き・・・。
ついにアメリカ市場を見据えた市販車、「アメリカシリーズ」の販売を開始。
まずは340アメリカに・・・。
1951年には342アメリカ、そして・・・。
1960年には400スーパーアメリカも。
1962年にはあの250GTOが誕生します。
その後には4人が乗ることができる330アメリカといったモデルも登場。
500スーパーファストは当時「最も速い」フェラーリで、最高速はなんと時速280キロ。
そして365カリフォルニアといったモデルも存在しますが、まだまだこのあたりでは生産台数が「数十台」といったレベルに留まるようですね(そう考えると、250GTOの生産台数が特別少ないわけではない)。
そして革命的だったのは1967年に登場したディーノ206GT。
これはコストを下げ、販売台数を増加させるという当時のフェラーリの戦略に従い企画されたクルマですが、フェラーリとしてははじめてアッセンブリーラインに乗って作られたクルマです。
このアイデアを出したのは1956年に若くして無くなったエンツォ・フェラーリの息子アルフレッド(享年24歳)で、「ディーノ」はその愛称でもあり、エンツォ・フェラーリはなき息子を偲び、”ディーノ”の名を使用したということになりますね。
ただ、エンツォフェラーリとしては「V12以外のエンジンを積んだクルマをフェラーリと呼ぶことは出来ない」という信念を持っていたので、このディーノ206GTについては、「フェラーリ」ではなく「ディーノ」ブランドとしての販売開始となっていて、フロントやホイールのセンターキャップ、ステアリングホイールのエンブレムは「Ferrari」ではなく「Dino」(後にディーノブランドはフェラーリに統合される)。
結果的にディーノは152台を販売することになりますが、それまでの「数十台レベル」という販売とは文字通り桁違いの販売台数を誇っており、これがフェラーリにとってひとつの転換期になったのは間違いのないところです。
フェラーリの進化を紹介する動画はこちら
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参照:Flatlife