ランボルギーニは昔からチャレンジ精神に溢れていた
「Octane」にて面白い記事があったので個々で紹介したいと思います。
記事そのものは「ランボルギーニ・ミウラ誕生秘話」といったものですが、その中でもっとも興味を引いたのは「ミウラのリアフードは、なぜあのルーバーになったのか」。
ランボルギーニ・ミウラはミッドシップマウントではあるものの、現代のランボルギーニのようにエンジンルームを見ることができず、ガラスのかわりにこの「ルーバー」が装着されています。
「ガラスのほうが視界が悪くなってしまった」
このルーバーについて、エンジニアのパオロ・スタンツァーニ氏が語ったところでは「出来上がった試作車は後方視界が悪く、後方視界を良くしようと、(樹脂製の)透明なウインドウを使用してみたものの、蒸発したオイルでウインドウが汚れ、もっと視界が悪くなった」ためにこのルーバーが採用された、とのこと。
確かにこのルーバーだと裏面にオイルが付いても視界は変わらず、かつ外からもその汚れが見えないので「いい案」だったと思われます。
ちなみにこのルーバーはワルター・デ・シルヴァ氏のデザインした「ミウラ・コンセプト」にも再現されていて、ミウラを構成するアイデンティティの一つだと言えますね。
そして面白いのは「ランボルギーニ・ウラカン」でもこのルーバーが採用されたこと。
なお、ウラカンはサイドステップなど、いくつかミウラとの共通点を保有していることで知られます。
そしてパオロ・スタンツァーニ氏は「ミウラの父」とも呼ばれ、その後カウンタックの設計にも携わった、ランボルギーニにとっての最重要人物。
ランボルギーニのオフィシャルサイトにもその功績を称えるコンテンツが公開されていますね。
同氏はすでに亡くなっていますが、イタリアはボローニャに「雄牛の宿」というホテルを経営していて(今は娘さんが運営)、次回ボローニャに行った際にはぜひ宿泊したいと考えています。
ミウラには知られざる逸話がいくつかあった
そしてほかにもミウラに関しては逸話が残っているようで、たとえば設計を担当したジャンパオロ・ダラーラ氏は「前後同じサイズ(直径)のタイヤを装着してしまったこと」が現在でも心に残る失敗だった、とのこと。
ただ、これには理由があって、「パンクしたときのこと」を考えると前後同じサイズにしておかないとオーナーに不利益が生じたからだそう。
当時はタイヤがパンクしやすかったり、簡単に補修できるキットもなかったためだと思われます。
なお、ジャンパオロ・ダラーラ氏もランボルギーニにとって欠かせなかった人物の一人であり、やはり公式コンテンツに登場。
ランボルギーニを退社してレーシングカーを制作する会社を興していますが、その後もランボルギーニとは良好な関係を築いていて、現在でも「ウラカン・スーパートロフェオ」はダラーラとの共同開発。
最近では自社名義のスポーツカーを発売していますね。
ミウラのデザインは40日で仕上げられた
そしてミウラのボディをデザインしたマルチェロ・ガンディーニ氏は「そのデザイン猶予が20日しかなかった」とも語っています(やはりランボルギーニの公式サイトで人物が紹介されている)。
ミウラの開発は突貫作業で進められたことが知られており、最初にショーに展示されたときは「ボディなしのベアシャーシのみ(1965年のトリノショー)」。
そのほか、ミウラは完成後に「ほんのちょっと試運転しただけで発売された」「寒冷地での始動テストを一度もしていなかった」「長距離を走れるかどうか誰もわからなかった」という記述もあり、このあたりは「なんともランボルギーニらしい」話でもありますね。
もちろん現代では考えられないようなことですが、それだけ当時のランボルギーニには勢いがあった、ということなのかもしれません。