| もし不幸な「トラクター事件」がなければ、現在のランボルギーニはまた違ったものとなっていただろう |
一時はまさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったが
さて、「ランボルギーニが創業してから現在にいたるまで」という動画が公開に。
ランボルギーニは「もっとも設立動機が明確な自動車メーカーの一つ」とされていますが、この動画でもそこに触れており、いったいどういった経緯で設立され、現在に至るのかを見てみしょう。
まず、(大矢アキオ翻訳「ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ」によると)ランボルギーニ創業者であるフェルッチョ・ランボルギーニは幼少の頃から機会に親しみ、10代後半になるとバイクを駆ってレースに参戦していたといいます。
その後には徴兵されることになるわけですが、首尾よく整備を担当する部署に配属され、そこで様々なノウハウを身に着けたそうで、退役後には軍から安く払い下げてもらったエンジンを使用してトラクターを製造し、そこで大きな利益を上げることに成功するわけですね。※このあたりは同書に詳しく書かれており、フェルッチオ・ランボルギーニの商才の豊かさが感じられる
フェルッチョ・ランボルギーニもまた、フェラーリオーナーだった
そこで「成功した人」の例にもれずフェルッチオ・ランボルギーニもフェラーリ(250GT)を手に入れることになり、しかしたびたびトラブルに泣かされることに。
フェルッチョ・ランボルギーニはフェラーリにクレームを入れるも、フェラーリのカスタマーサポートの態度があまりに悪く・・・
自身が機械に明るかったということもあってクルマを分解したところ、クラッチに問題があり、その改善方法を持ってエンツォ・フェラーリに会いに行ったそうですが、「それはドライバーが悪いのであって、クルマのせいではない」と一蹴され、「お前はトラクターを運転できるだろうが、フェラーリは扱えまい」とまで言われることに。
さすがにこれにはフェルッチョ・ランボルギーニも頭にきて「じゃあフェラーリよりも速く、そして壊れないクルマを作ってやる」として設立したのが自動車メーカーとしての「アウトモビリ・ランボルギーニ」というわけですね。
つまり、フェラーリのカスタマーサポート(というものは当時なかったと思われるので、販売窓口だと思われる)の態度が悪くなければ、自動車メーカーとしてのランボルギーニは存在していないということになりますが、この逸話については、商売上手なフェルッチョ・ランボルギーニが「自身の新しいスーパーカー会社の有名にするのに、フェラーリを利用してやろう」と考えて広めた話だという説もあるもよう。
ただ、エンツォ・フェラーリは実際に「お前にはフェラーリは運転できん」という発言を多くの顧客、または買いに来た人に対して行っていたようなので、実際にフェルッチオ・ランボルギーニもそう言われた可能性も否定できません(もしくは、そういった話を聞いて暴言を利用したのか)。※フランスの映画監督、フランソワ・トリュフォーもそういった暴言を吐かれた一人だと聞いたことがある
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じゃあなぜフェルッチオ・ランボルギーニは(エンツォ・フェラーリに軽くあしらわれたわけではないとして)スーパーカーを作ろうと考えたのかという理由についても諸説あり、ひとつは「フェラーリを分解したら、トラクターと同じパーツが出てきて、”同じパーツを使用していてもスーパーカーは高い値付けができる”ということに気づき、自分も(儲かるので)スーパーカーを作ろうと思った」、あるいは「トラクターの他に手掛けている、エアコンや冷蔵庫などの宣伝に、美女とスーパーカーを並べた絵を使用すれば(家電が)売れると思った」という説も。
ちなみに後者については実際にそれを行った記録があるので、「事実もしくは事実の一部」なのかもしれません。※フェルッチオ・ランボルギーニは、「目を引くクルマを作って広告に活用することは、いかにお金がかかろうとも、同じ金額をほかのいかなるプロモーションに投じるよりリターンが高い」と語っている
さらにいえば、ランボルギーニのエンブレムに採用される「闘牛」もフェラーリの「馬」に対抗したものだと言われていて(公的にはフェルッチョ・ランボルギーニの星座が牡牛座だったからだと言われる)、フェルッチョ・ランボルギーニは「フェラーリという巨人に戦いを挑む新星」という構図を演出したかった、という話もあるようですね。
そしてもうひとつ、「モータースポーツ活動を行わない」というのもフェラーリに対抗してのポリシーだと言われますが、フェルッチョ・ランボルギーニはビジネスとしてスーパーカーを捉えていて、そこは「レースに出るための資金を獲得するために市販車を販売する」フェラーリとは全く異なる視線を持ち、フェラーリのクルマはレーシングカーのような乗り味でまったく普通に乗ることはできず、しかしランボルギーニは快適なGTカーであるということをアピールするためにもモータースポーツへの参戦を拒否したとも言われています(快適で完璧なGTカーを作るために会社を興した、ということは公的に語られるランボルギーニの設立動機でもある)。
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そしてこの「モータースポーツ不参加」についてはもうひとつの説があり、それは(ミウラやカウンタックに積まれるV12を設計した)ジオット・ビッザリーニから、「モータースポーツ活動は、企業を疲弊させるのでやめたほうがいい」という助言を受け、スーパーカーを「ビジネス」として捉えていたフェルッチョ・ランボルギーニがそれに従ったというもの。
ちなみにジオット・ビッザリーニはフィアット、アルファロメオ、そしてフェラーリを渡り歩いた「天才」設計技師(フェラーリ250GTOもビッザリーニの設計)で、1961年にはエンツォ・フェラーリの方針に反対したほかの古参メンバー7人とともにエンツォ・フェラーリに抗議を行うという「宮廷の反逆」を行っていますが、この結果フェラーリを解雇されることになり、そこからランボルギーニへと移ったという経歴を持っています。
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最初のランボルギーニは1964年に登場
それはともなくとして、1963年にはアウトモビリ・ランボルギーニが創業されることになり、その翌年には最初のクルマである「350GT(3.5リッターV12エンジン搭載)」が登場。
ちなみに発表されたのはトリノショーですが、発表時には車両が完成しておらず、ボンネットの中にはエンジンが入っていなかったので、ショーの会期を通じてボンネットは閉じられたままだったといいます。
なお、最高速は249km/h、0−100km/h加速は6.8秒というパフォーマンスですが、これは1964年としてはかなり優れた数字であり、同じ1964年に発表されたフェラーリ275(3.3リッターV12エンジン搭載)の最高速は250km/hだったので、「市販車第一号」としては破格の性能を持っていたと考えていいのかも。
参考までに、フェラーリ275は(275GTB/4まで含めると)4年間で950台が製造されたという記録があり、それに比較すると350GTの「120台」はかなり少ない数字ではあるものの、フェラーリはすでに名声を獲得し世界中に顧客を持っていたこと、しかしランボルギーニは「名も知れぬ新興メーカー」であり生産期間も2年程度であったことを考えれば、この販売台数についても「かなりいい数字」なのかもしれません。
そして1966年には性能を向上させた400GT(3.9リッターV12エンジンをフロントに搭載、2+2)が登場し、こちらは2年間で250台が販売されることに。
なお、「フェラーリに対抗した」ランボルギーニの最初のラインアップがこういった「2+2」であったのは意外でもありますが、ここも「レーシングカーが基本のフェラーリ」に対抗した部分なのかもしれません。
さらに1966年にはあのミウラ(3.9リッターV12を横置きミッドに搭載、2シーター)が登場。
その美しいスタイリングから多くの著名人に愛され、ロッド・スチュワート、エルトン・ジョン、フランク・シナトラも購入しており、とくにフランク・シナトラは「フェラーリとは異なり、ランボルギーニは自分を持っている人物が買うクルマだ」とも語ったそうですが、ミウラはこういったセレブのみではなくマフィアにも人気が出てしまい、それによるブランドイメージ悪化を恐れたフェルッチオ・ランボルギーニが「(販売絶頂期に)販売終了を決めた」とも。
なお、フェラーリを購入する場合、多くの人がその理由を「フェラーリだから」と語るかもしれませんが、ランボルギーニの場合は「そのクルマが好きだから」と語るんじゃないかと考えていて、フェラーリはブランドに、ランボルギーニはそのクルマに魅力の大半が詰まっているのかもしれません。
ちなみに「ミウラ」は闘牛を育てる牧場の名であり、車体デザインはベルトーネ(に在籍していたマルチェロ・ガンディーニ)。
参考までに、ランボルギーニ最初の市販車「350GT」同様、未完成のまま1965年に(トリノ・オートショーにて)発表を行っており、その際は一切ボディが架装されていないシャシーとエンジンのみの展示であったとされています。
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1968年になると「イスレロ(3.9リッターV12をフロントに搭載、2+2)」が登場しますが、「イスレロ」は闘牛の名であり、この頃から命名法則が確立されつつあったのだと思われます。
ちなみにボディのデザインはフェルッチオ・ランボルギーニ本人によるもの。
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同じ1968年にはベルトーネのデザインによるエスパーダ(3.9リッターV12エンジンをフロントに搭載、4シーター)が登場しており、これは「2+2」ではなく4人が乗ることができるグランドツアラーで、生産期間は役10年、そして1217台が製造されたヒット作。
「エスパーダ」とはスペイン語で「剣」を指しますが、これも闘牛に使用する剣を意味したものだと思われます。
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ちなみにここまでの生産台数はこんな感じ。※ミウラはシリーズトータルだと747台だとされている
1970年にはハラマ(3.9リッターV12をフロントに搭載、2+2)が登場しますが、この名称は一般に「スペインのハラマサーキットから取られた」とされていて、しかし動画によると「同名の闘牛もいた」ようですね。
デザインはやはりベルトーネのマルチェロ・ガンディーニで、このあたりから(フェラーリのデザインがピニンファリーナというように)ランボルギーニとマルチェロ・ガンディーニという黄金コンビが成立していたとも考えられます。
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そして1971年には「ミウラSV」。
この動画では「ミウラ」と「ミウラSV」とを区別していますが、SVとは「スプリントヴェローチェ(イタリア語で”速くチューンされた”の意味で、現代のSV=スーパーヴェローチェとは異なる)を意味し、出力向上(370馬力から385馬力へ)のほかリアサスペンションの改良、リヤを中心とした車体デザインの変更が行われています。
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ここまでのランボルギーニ車それぞれの加速性能やスペックは下記のとおりですが、「けっこうハラマは高かったんだな・・・」という印象です。※インフレ率を考慮すると、現在の貨幣価値だと1700万円くらいになるらしい
ランボルギーニは1971年以降、複数オーナーのもとを転々
ここまでを見ると、ランボルギーニはその創業後、ほぼ毎年のようにニューモデルを発表しており、新興自動車メーカーとしてはかなりの勢いがあったようにも思います(フェラーリは1947年設立、ランボルギーニは1963年設立)。
まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったのだろうということは想像に難くなく、しかしここで問題が勃発。
1971年には「大量にトラクターの納入を予定していた」ボリビアにてクーデターが発生してその話が「流れて」しまい、一気に財政難に陥ったことから、フェルッチョ・ランボルギーニはトラクター部門(ランボルギーニ・トラットリーチ)の株式すべてをフィアットに売却し、自動車部門(アウトモビリ・ランボルギーニ)の株式51%をスイスの投資家であるジョルジュ=アンリ・ロゼッティに譲渡してしまいます。
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つまり、ランボルギーニ創業者、フェルッチョ・ランボルギーニは、創業からわずか7年でランボルギーニ(自動車部門)の経営権を手放してしまったわけですね。
さらに1974年には、のこりの49%もレイネ・レイマーに渡してしまい、完全に自動車ビジネスから手を引き、余生はワインづくりとバラ栽培に費やしたとされていますが(今でも一族がワインを生産しており、ゴルフクラブ含むリゾート施設も運営している)、当時盛んになった労働争議に対して嫌気が差してしまい、会社経営から遠ざかろうと考えたのだという説を記した文献も見られます(フェルッチオ・ランボルギーニはワンマンではなく仲間とともに会社を盛り上げてゆこうという”兄貴肌”の人物だったとされるので、労使が強く反発する労働争議には耐えることができなかったのかもしれない)。
そういった経緯もあり、ひとまずここで「ひとつの時代」が終焉を迎えることになりますが、次回は「新しいランボルギーニの幕開け編」をお届けしたいと思います。
ランボルギーニ創業から現在までの流れを紹介する動画はこちら
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参照:Flatlife