■駄文(日々考えること)

その日、猫と約束した時間を守れなかったボクを待っていた、あまりにも過酷な現実。ボクと一匹の猫との物語

その日、猫と約束した時間を守れなかったボクに何が待ち受けていたのか?ボクと一匹の猫との物語

| 動物は、ボクらが思う以上にボクらの言葉や感情を理解している |

生きている間、いかにお互いを尊重し、いかに幸せな時間を過ごすかが重要だ

さて、先日よくお世話になっているショップにて、ぼくが「予約した時間ぴったりに来てくれるのでたいへん助かる」という話をいただいたわけですね。

ちなみにぼくはキッチリ時間を守るタイプなのですが、それは時間を守ろうとしているわけではなく、約束の時間に遅れることに対してひどいプレッシャーを感じるタイプだから(よって、どうしても遅れてはいけない予定がある前の日などは緊張して眠れない)。

ただ、ぼくは自分が時間を守るほうだからといって「時間を守らない人」に対して「時間守れよ」と言うことはなく、それは自分が時間を守らないと精神の平和を保てないのと同様、時間を守らない人は時間を守ることが苦痛だと感じているのだろう、と考えているため。

つまりぼくは多様性を尊重(人は人、自分は自分)しているということになるのですが、それでも「自分は時間を守れないんですが、どうしたら時間を守れるようになりますかねえ」という相談を受けることがあり、そういったときにはいつも決まって「ぼくとの猫とのストーリー」を話すことにしています。

その日、ボクは時間を「守れるはず」だったが

ぼくは長いあいだ猫を飼っていて、しかしもちろん寿命でこの世を去ってしまう場合もあり、これはそのときの話です。

それまでにもぼくは病気や寿命でなんどか猫を失っていたので、「その最後の日」についてはあるていど直感でわかります。

そしてその日も、「今日が”その日”だな」と思いつつ、しかしその瞬間をずっと待つのも猫に気を使わせてしまうだろうと考え、「今日は夜7時に帰ってくるよ」と伝え、いつもどおり仕事にでかけることに。

なお、その猫は生まれたときから障害があり、ブリーダーが「処分」するというのでぼくが引き取ってきたのですが、「2−3年で死んでしまうだろう」と言われたところ、7年も生きてくれ、一緒に楽しい時間を過ごせたことについては感謝しています。

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ただ、その1−2年前から体調を崩し、体の一部が麻痺するなど死の兆候が見えはじめ、よってぼくはそれを受け入れつつ、いつその瞬間が訪れても後悔しないよう、そして死が猫を捉えたとしても「(もう苦しまずに済むので)良かったね。天国で元気な姿に戻れるといいね」と心おきなく送り出せるように毎日を過ごしていたわけですね。

しかしながらその日の夕方に想定外の問題が起きてしまい、ぼくは夜7時に家に戻ることができなくなってしまうのですが、その理由は単に会議が長引いたから。

会議が長引くことを想定し、事前にクライアントには「今日は用事があるので、予定通りに会議が終了した後、定時(6時)に退社します」と伝えていたものの、無慈悲にも会議が長引いてしまい、家についたのは午後7時20分。

当時ぼくはミニクーパーSを通勤に使用していて、通常は片道40分かかるところ、その日は思いっきり飛ばして17分で帰宅し(もう二度とあんなスピードでは走れないと思う)、それでも予定より20分遅く帰宅することになったのですが、玄関のドアを開けてぼくが見たのは、玄関にて息絶えている猫の姿。

体が麻痺していて、いつも寝床にしている箱から出て歩くことすらままならぬ状態だったのに、ぼくの帰りが遅くなったため、ぼくの姿を求めて這うようにして玄関にまでやってきて、それでもぼくが帰ってこなかったためにそのまま絶命してしまったものと思われ、そのときの猫の気持ちを考えると今でも心が痛くなります(どれだけ心細い思いをさせてしまったのかと考えるといたたまれない)。

猫の体はまだ温かく、息絶えたのは少し前だということも想像でき、つまり「ぼくが予定通り帰宅していたならば」猫にこんな思いをさせずに済んだと思うと悔やむに悔やみきれず、これがぼくにとって「(はじまりだけではなく、終わりの)時間を守ることの大切さ」を人に伝えることができる唯一の話です。

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動物は人間が思っているよりもずっと優しい

ちなみにですが、ぼくが「その日」を悟ったとして、ずっと見守らないのには理由があります。

それは子供のころ飼っていたうさぎとの体験によるもので、そのうさぎもある日寿命が尽きようとしていたのですね。

そしてぼくはそのうさぎが心配で心配で、夜通しずっとうさぎを見ていたのですが、その姿を見た両親がぼくに「もう休んだら」と勧めるものの、当然ながらぼくは心配で自分だけ眠ることなどできません。

そこで不思議なことに、急にうさぎが元気になってケージの中をびんびん飛び回り、ぼくはその様子を見て「病気が治ったんだ」と思って安心して床につき、しかし次の日起きてみるとうさぎはすでに冷たくなっていた、という経験をしています。

つまり、うさぎは「心配して眠ることができないぼくを安心させようと」最後の力を振り絞ってぼくに元気な姿を見せてくれたのだと考えられ、そのときぼくはうさぎに心配をかけてしまったことをひどく後悔したわけですね。

よって、ぼくはそれ以来、(目を離すべきではない状態を除き)動物に負担をかけないように「いつもどおりに」過ごし、それによって動物を安心させるようにしています。

あれからも何匹か猫を送り出しましたが、死の間際になって悲しむよりも、むしろ「今までありがとう」と言えるよう、そのためには日々後悔しないよう過ごしたいという気持ちはずっと変わりませんし、猫が心配せずに旅立てるようにしたいという気持ちも変わりません。

いかなる理由があろうとも、必ず動物は死を迎えることになりますが、死んでしまうことよりも、今という時間をいかに充実させ、自分も猫も悔いが残らないようにすることがぼくにとっては大きな問題であり、死が猫を捉えたとしても(寂しいことに変わりはありませんが)猫が安心して天国への階段を歩めるよう送り出せるようにしたい、とも考えているのです。

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