| 創業魔もない頃のブガッティは「レースにおいて”ハイパワーなエンジンをもって直線区間のタイムを稼ぐ”ことで勝利を量産していた |
レースにおいてブレーキ性能、軽量化、シャシー性能が重視されるようになるのはずっと後のことである
さて、ブガッティの歴史においてもっとも成功したとされるレーシングカーが「タイプ35」。
現役時代になんと2,500もの勝利を手中に収めた伝説のクルマでもありますが、1924年から1930年代にかけ様々なバリエーションが送り出されています。
このタイプ35はモータースポーツにおけるライバルたちとの競争が一層厳しくなってきた時代において、エットーレ・ブガッティが自分自身に困難な課題を課すことにより前に進もうとして設計されたレーシングカーで、従来のエンジニアリング原則を覆すというエットーレ・ブガッティのビジョンと勇気を体現したクルマとしても知られます。
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後のブガッティを定義したタイプ35の最初のレースは問題だらけだった。「完璧な状態で生まれることはありません。 完璧は、失敗を認識し、改善することで得られます」
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ライバルが立ち止まることはなく、自分も休むことができない
初期のType35は8気筒1,991ccエンジンを搭載し、1924年にデビューしたレース仕様では90PSを発生させていますが、1926年初頭までにエンジンは2,262ccにまで拡大され、とくにタルガフローリオ用に調整された「タイプ35T(タルガ・フローリオのT)」は実際に同レースでの勝利を収めることに。
なお、エットーレ・ブガッティはサーキットでのレースよりも公道レースを好んだといい、その理由は「ロードレースのほうが(より多くの人が目にするため)宣伝効果が大きいから」。
つまりエットーレ・ブガッティは自動車づくりを商業的成功と結びつけた人物であり、これは当時としては非常に珍しい考え方であったと言われます(ブガッティはこの考え方を導入した最初の自動車メーカーだとも言われている)。
しかしならが上述のように当時はライバルの躍進が著しい時代であり、それら多くのライバルに打ち勝つためにエットーレ・ブガッティが選んだのは「エンジンの出力向上」。
この時代はハイパワーエンジンによって直線でのアドバンテージを稼ぎ、その積み重ねで勝利を量産するという考え方が主流だったといい、しかし一部では「強力なブレーキを搭載して制動距離を短縮する(アクセルを開けることができる時間を長くする)」、「軽量な車体を用いてコーナリングスピードを上げる」という考え方を持つエンジニアも登場してきた時代でもあったそうで、まさに多種多様なクルマが走り、それぞれのメーカーは自社の信念を貫いていた時代なのかもしれません。
そしてエットーレ・ブガッティは自身の信念を貫くためにひたすらパワーアップの道を進むことになりますが、それゆえに独立懸架式サスペンションや油圧ブレーキの導入にも消極的だったとされ、これはエンツォ・フェラーリが「エンジン第一主義」を貫きエアロパーツを軽視していたこと、フロントエンジンにこだわってミドシップ化が遅れたことと(これによってフェラーリはライバルに対し2年の遅れを取ったと言われる)よく似ているのかもしれません。
そこでエットーレ・ブガッティはスーパーチャージャーの開発に取り掛かることとなるものの、実はエットーレ・ブガッティは「スーパーチャージャーは非効率的であり、自然吸気エンジンを好んでいた」とされ、しかし排気量アップだけでは自然吸気エンジンの限界が見えていたため、出力を上げるにはスーパーチャージャーしかない、と捉えていたようですね(当然ながら当時はターボチャージャーが存在しない。しかしそれでも、これほど早い段階から過給機という考え方が一般化していたことには驚かされる)。
エットーレ・ブガッティが自然吸気エンジンを第一に好んだことは周知の事実であり、当初はスーパーチャージャーが比較的非効率だったため、あまり熱心ではなかったのです。しかし、あまり知られていないかもしれませんが、ブガッティは自然吸気エンジンを好むにもかかわらず、タイプ35が1924年8月にリヨンでレースデビューする前から、スーパーチャージャーを使用した強制吸気の将来を見据えていたのです。
実際、ブガッティは1924年1月22日に、ドライバーが操作したときに加圧空気を強制的に空気に送り込むことにより、オンデマンドで追加のパワーを供給できるロータリーベーンの設計について、『コンプレッサー・オ・ポンペ・ア・パレット』に関するフランス特許第 576.182 号を申請しています。 そして、一つ確かなことは、ブガッティがスーパーチャージャーを使用するつもりなら、彼は自分のやり方でそれを行うだろうということだったのです。
ブガッティ ヘリテージ認証スペシャリスト ルイージ・ガリ
その結果、エットーレ・ブガッティはイタリア人エンジニア、エドモンド・モグリアとともに独自のルーツ型スーパーチャージャーを開発しましたが、当時一般的だった2ローター設計ではなく、3ローター構成を選択したことは特筆に値し、スーパーチャージャーはエンジンのオフサイドに、そして圧力リリーフバルブがマニホールドの上に取り付けられ、ボンネットに開けられたホールを通して過剰なブースト圧力を排出するという構造を採用しています。
さらに革新的なステップとして、エンジンの排気入口マニホールドが(エンジンの冷却によって熱を持った)エンジン冷却液によって加熱され、これは(加熱によって冷却液の熱が奪われるので)エンジン自体の冷却能力の向上に貢献しながらも、より迅速に暖機して効率を高めることを意味しており、この原理は今日でもブガッティのエンジン構造に用いられている、とのこと。
1926年後半にはさらに進化したタイプ35TC(タルガ コンプレッサー)が登場し、1927年にはタイプ35Bへと進化することになるのですが、これはより大きな冷却を可能にする大型のラジエーターとカウリングを持つ「ミラマス」設計として知られます。
なお、この時点で出力は最高130馬力、最高速度は205km/h に達したといい、しかし当時のタイヤ性能やブレーキ性能を考慮すると、文字通りレーシングドライバーは「命がけ」の職業であったのことも想像に難くありません。
その後もさらなるタイプ35の開発が行われ、1930年後半になるとツインカム2バルブエンジンを搭載し(ツインカム化もエットーレ・ブガッティの信念に起因し他社に遅れを取っている)、多くの人が究極の仕様とみなすバージョンへと進化していて、この仕様ではツイン燃料フィラーキャップ、アップグレードされたサスペンション、ホイール、ブレーキ、タイヤ等が与えられ、さらにその後はタイプ37やタイプ39へとバトンタッチする形をもって数々の栄光とともに生涯を閉じることとなっています。
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参照:Bugatti