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後のブガッティを定義したタイプ35の最初のレースは問題だらけだった。「完璧な状態で生まれることはありません。 完璧は、失敗を認識し、改善することで得られます」

後のブガッティを定義したタイプ35の最初のレースは問題だらけだった。「完璧な状態で生まれることはありません。 完璧は、失敗を認識し、改善することで得られます」

| いかにブガッティといえど、最初から「完璧」ではなかった |

ただし完璧を目指し、そのために行動しなければ完璧にはたどり着けない

さて、ブガッティが「その後のブガッティのクルマのあり方を定義することになった」というタイプ35に関するコンテンツを(先日に引き続き)公開。

ブガッティいわく「タイプ35は他に類を見ない設計を持ち、比類のないダイナミクス、機敏性、パフォーマンスを保証する世界初のクルマであった」。

ここでブガッティ・タイプ35が「それほどまでの評価を受けるようになった」ストーリーを見てみましょう。

ブガッティが「世界初の専用設計レーシングカー」、タイプ35について語る。「自動車に関し正式な教育を受けていなかったからこそ、常識外れのクルマを設計できたのです」
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ブガッティ・タイプ35は悲運のクルマでもあった

このブガッティ・タイプ35は「もっとも印象的なブガッティ」の一台であり、10年以上にわたるキャリアの中で2,500回以上の勝利および表彰台を獲得したクルマでもありますが、そのスタートは「必ずしも思い通りではなかった」といいます。

まず1924年に「フランス自動車クラブが開催し、23.1kmの公道サーキットを35周する」リヨン ジヴォール グランプリが6月に開催され、ここでは5台のタイプ35がはじめて出場、つまり初陣を飾ることとなり、6番目のオリジナルプロトタイプに与えられた役割は「スペアカー」。

これらブガッティ・タイプ35は(ブガッティ本社所在地の)はモルスハイムからリヨンまで何の問題もなく走行し、プラクティスにおいてはラジエーターの前にストーンガードが取り付けられ(当時の路面状態はあまりよくはなく、飛び石でラジエターを破損することも多かった)、ドライバーの前にはカウル、そしてラジエターキャップには温度計が装着されることに。

05 BUGATTI_Type 35 Making of a Champion

これら5台のタイプ35を駆るドライバーはジャン・シャサーニュ、ピエール・ド・ビスカヤ、レオニコ・ガルニエ、エルネスト・フリードリヒ、バルトロメオ・“メオ”・コスタンティーニたちで、しかしスタート時には「自分たちがこれから直面するであろう困難を予想できなかった」。

ただ、コース上で最初の問題として彼らに襲いかかったのはクルマそのものではなく、タイプ35用に作られた特別なタイヤであったといい、ピエール・ド・ビスカヤのドライブするタイプ35では最初のトラブルが わずか1 周目で発生し、さらに悪いことに3周目にはトレッドがサイドウォールから剥がれ、ルートに並ぶ10万人の観衆の前でその醜態を白日のもとにさらけ出してしまいます(さらには完全な不運も加わり、ジャン・シャサーニュのタイヤから剥がれたトレッドの一部がステアリングホイールに絡みつくことになる)。

バルトロメオ・“メオ”・コスタンティーニのクルマもラジエーターのオーバーフローパイプの溶接による接合部からの(冷却水)漏れによる冷却上の問題を抱えていたうえ、やはり剥がれたタイヤのトレッドの一部がギアレバーに巻き付いてしまい、これによりレバーが曲がったためにコスタンティーニは2速と4速へのシフトができなくなり、結果的にギアボックスが損傷してリタイアを喫することになりますが、それまでに記録したファステストラップによって自身のスキルを証明し、そしてタイプ35の矜持を少なからず保つことに成功したわけですね。

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しかし、その後にもブガッティ チームにはさらなる不運が次々襲いかかり、他のドライバー数名がリタイアを余儀なくされ、コース上に残った中で最高位だったのはジャン・シャサーニュの7位という結果に。

なお、 レース後の調査によってタイヤの問題は製造上の欠陥が原因であることが判明し、完成したタイヤに望ましい特性を与えるために加熱するプロセスである加硫が適切に行われておらず、その結果、こタイヤはレースによって与えられるストレスに耐えることができなくなったと結論付けられています。

しかしその一方、ブガッティ タイプ35の優秀さも証明される

その一方、エットーレ・ブガッティが意図した結果ではなかったものの、このタイヤ問題はタイプ35が採用した革新的な軽量鋳造アルミニウム製ホイールの強度を証明することになり、タイヤがバーストしても安全に走行し戻ってきたタイプ35をして当時のメディアは「予想に反し、これらの車両はレースに耐えただけでなく、ホイールのみでの走行によって受けたはずのひどい打撃の兆候も見られなかった」と讃えたのだそう。

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その後、エットーレ・ブガッティはタイヤの仕様とサプライヤーの変更を行い、新しいタイヤを装着したタイプ35でストラスブールからパリまでの520kmを平均時速100km/h近くで運転したと書簡に記し、そこには「 街中でもレース同様に気軽に使用でき、次の機会にその信頼性を実証できるでしょう」とも。

はたしてその「次の機会」はサン・セバスティアン・グランプリという形で訪れることになり、バルトロメオ・“メオ”・コスタンティーニが再びファステストラップを記録し2位に浮上することに。

その後もタイプ35の快進撃は続き、それは「もはや何ものもブガッティを止めることはできない」ほどの勢いであったといいますが、サーキットでの成功はこの象徴的なクルマの功績の一部にしかすぎず、ブガッティはレースで勝利を収めた週末の後にタイプ35をより多くの顧客に販売することに成功しています(日曜に勝ち、月曜に売る)。

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その後もエットーレ・ブガッティはこのタイプ35を絶え間なく改良し続け、それによって上述の「2,500以上もの」勝利そして表彰台を獲得することになるのですが、この背景にはエットーレ・ブガッティの完璧を目指す姿勢、そしてより良い製品と結果を目指す姿勢があったことは言うまでもなく、もちろんこれは現代のブガッティにも根付く基本姿勢だと思われます。

自動車レースにおける成功は、白熱した競争の中で築かれるだけではなく、多くの場合、初期の失敗のるつぼから生まれます。 エットーレ・ブガッティはタイプ35の可能性を理解しており、多くのメーカーが巨大なエンジンを搭載した大型で扱いにくいレーシング カーをレースしていた時代に、軽量で機敏なアプローチを採用しました。 しかし、完璧な状態で生まれることはほとんどありません。 完璧は、失敗を認識し、改善することで得られます。 そして、1924年8月のその日の競技デビューで学んだ重要な教訓を受け入れることで、タイプ35は比類のないレースカーであることを証明することになったのです。

ルイージ・ガッリ
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参照:Bugatti

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