| クリエイティビティにあふれる人はきっとこの環境下でも退屈していない |
さて、世の中で言われる「自粛疲れ」ですが、これはぼくにとってまったく理解ができない現象。
正直、「どこにも行けないのなら、別のことをすればいいじゃない」と考えていて、その「別のこと」は山のようにあるワケですね。
ですが、世の中の多くの人は「暇すぎて死にそう」「やることがない」「どこにも行けない」「退屈」ということでストレスが蓄積している、という状況にあるようです。
退屈だという人は、自分自身が退屈な人間だということに気づいてない
ぼくが思うに、「退屈な人は、本人そのものが退屈は人」。
どういうことかというと、その人の中にはおよそクリエイティビティが存在せず、常に「周りから楽しませてもらって人生を生きている」ということになり、コロナ自粛によって「楽しませてくれる人に会えなくなったり、イベントに参加できなくなった」ことによって、結局のところ「自分は何も持ってなかった」ということが露見しているだけなのだと考えています。
たとえば、「祭り好き」な人はこれに該当すると考えていて、人に囲まれていたり、外部からの刺激がなければ「退屈で死にそう」になる人ですね(ハロウィンや成人式で騒ぐ人々はこのタイプ)。
逆に、クリエイティビティにあふれる人々は、自粛環境下においても、内面からあふれるなにかによって生産することができ、それによって「生産性を持ってない人」を楽しませることができるのかもしれません。
ぼくは、常々世の中や人の性向というのは”二極化される”と考えていて、端的に言うと「Youtubeに動画をアップして人々を楽しませる人」と「それを見るだけの人」に分かれているということですね(ほかにも分類方法はたくさんある)。
そして、動画を作る人は溢れる創作魂を抑えられない一方、見るだけの人は「あーなんか面白い動画ないかなー」とか「自粛期間中だから何も面白い動画が(撮影できず)アップされてないなー」となりそう。
つまり、「楽しみ」を自分で作るのではなく、「人から与えてもらう」前提で生きているので、自粛によってその機会を奪われると、「暇すぎて死にそう」「やることがない」「どこにも行けない」「退屈」。
世の中は「与える側」と「与えられる(求める)側」とで構成されている
ただ、世の中は需要と供給にて成り立っていて、ほとんどの人が「楽しみを人から与えてもらう(自分の中に何もない)」タイプであり、だからこそ(”与える”側の)ユーチューバーが人気を博することになるわけですが、ぼく自身は常に与える側でありたい、とも考えています。
なお、ほかの”分類”としては、「一人で食事を摂るのが寂しいと感じる人と、一人で食べたいと思う人」「他人と同じことをしないと自分を惨めに感じる人と、他人と違うことをする自分に喜びを感じる人」「他人とのつながりを求める人と、他人とのつながりを求めない人」「他人が気になる人と、自分にしか興味がない人」など様々な傾向があると考えていて、こういった分類はけっこう両極に「パックリ」と分かれることになり、その中間だという人はあまりいないようですね。
そして参考までに、「他人も自分と同じだと思う人」いれば「他人は自分とは違うと思う人」も。
どういったことかというと、他人も自分と同じだと思う人は、「自分が美味しいと思うものは、他人も美味しいと思うはずだ」と信じていて、それを美味しいと思わないのはおかしいと感じて腹を立てたり排除したりする傾向があるようです。
逆に「他人は自分とは違う」と感じる人は、人の好みはそれぞれだと理解しているので、無理強いすることもなく、どんな他人の嗜好にも理解を示すようですね。
ちなみに前者はいわゆる「ワンマン経営者」に多く、意外と成功することも多い反面、後者は他人の意見を尊重してしまうので管理者や経営者に向かず、しかも優柔不断だと判断され、評価を得られないという社会の矛盾もある模様。
コロナウイルスの影響による自粛に話を戻すと、ぼくはこれを「神様が与えてくれたモラトリアム」だと捉えて次のステップに進むために有効活用しており、暇だと考える暇すらない状態です(どんな状況においても、やるべきことは必ず残されている)。