| 当時、F1マシンの設計者が勝利に関与する割合は極めて大きかった |
フェラーリを辞した後にはランボルギーニ、そしてブガッティなどを渡り歩く
「フェラーリとモータースポーツに人生を捧げた」エンジニア、マウロ・フォルギエリが87歳で没したとの報道。
マウロ・フォルギエリはフェラーリにおいて1964年と1977年、1977年にはドライバーズ/コンストラクターズタイトル、1976年にはコンストラクターズタイトルの獲得に寄与した人物で、つまるところ7つのコンストラクターズタイトルそして4つのドライバーズタイトル獲得に貢献しています。
同氏が偉大であったのは、現代のF1はじめとするモータースポーツ事情とは異なり、当時は「エンジンと車体とを同じエンジニアが設計していた」ということで、つまりタイトル獲得におけるエンジニアの貢献度が非常に大きいということを意味します(そしてもちろん、マウロ・フォルギエリはフェラーリにてエンジンとマシンの両方を設計してきた)。
マウロ・フォルギエリはこんな人物だった
マウロ・フォルギエリは1935年1月13日に生を受け、ボローニャ大学にて機械工学を学び、卒業した後の1959年にフェラーリへと入社(エンツォ・フェラーリに直接雇い入れられている)。
当時フェラーリに在籍していたカルロ・キティのもとで経験を重ねるも、1961年にカルロ・キティ、ジオット・ビッザリーニらによる「宮廷の反逆」によってカルロ・キティがフェラーリを追い出されたのち、マウロ・フォルギエリは26歳という若さにて競技用車部門の責任者に大抜擢。
そこで最初に作ったF1マシンが「158F1」で、これが同氏にとって最初のコンストラクターズタイトルとドライバーズタイトル(ジョン・サーティースによる)をもたらすこととなり、確固たる地位を築いたわけですね。
その後にはフェラーリ312Tを開発し、シリーズを通じて1975年と1977年にはニキ・ラウダ、1979年にはジョディ・シェクターによるドライバーズタイトルを、1975年、1976年、1977年、1979年にはコンストラクターズタイトルを獲得。
ただしその後には不遇の時代も
しかしながら1980年代に入りターボエンジンの時代になると、エンジンとマシンとのバランスを欠いてしまい、フェラーリは車体をハーベイ・ポスルスウェイト、エンジンをマウロ・フォルギエリといった形に分担してF1へと臨み、1982年と1983年にはコンストラクターズタイトルを獲得するものの、依然として競争力は高くなく、マウロ・フォルギエリは1985年には市販車部門へと異動させられ、つまりは事実上の更迭と言えるかもしれません。
その後マウロ・フォルギエリはランボルギーニへと移り、当時ランボルギーニの親会社であったクライスラーの意向に従い、F1用のエンジンを製作してラルース、ロータス、リジェへと供給することとなっています。
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なお、この際にマウロ・フォルギエリが設計したエンジンは「フェラーリよりもいい音を奏でる」「非常にパワフル」という評判であり、これを(マクラーレンのF1マシンに載せて)テストしたアイルトン・セナもこのエンジンを(自身のF1マシンに)欲しがったという話もあるほどで、つまりはその腕は衰えておらず、しかしながら結局のところ、政治的理由にてマクラーレンはランボルギーニ製ではなくプジョー製エンジンを選択するという結果に。
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その後マウロ・フォルギエリはランボルギーニを去り、ブガッティほかいくつかの会社を渡り歩いたものの、一貫してモータスポーツ、そして自動車に関わり続け、F1に対しても様々なコメントを発するなどご意見番としても活躍していたのですが、今回訃報が届くことになり、フェラーリは「マウロ・フォルギエリは、我々の歴史上、もっとも重要な人物の一人であった」とコメントを発しているほか、ピエロ・フェラーリ副会長は「フェラーリとレース界に大きな貢献をしてきた人物であり、我々はその歴史の一部を失ったのだ」と述べ、その死を惜しんでいます。
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