| 当時、ベンツは商業的な理由によって「パフォーマンス」を広く市場へと示す必要があった |
アメリカにて「ライトニング(稲妻)と命名され、それがドイツ語に訳されて「ブリッツェン」に
さて、メルセデス・ベンツがおよそ114年前に「はじめて時速200kmの壁を破り、ガソリンエンジン搭載車として世界最速のクルマとなった」通称”ブリッツェン・ベンツ”に関するストーリーを公開。
このブリッツェン・ベンツは200km/hを突破するために1909年に作られ、そして実際に自動車史上はじめて200km/hを超えて走ることに成功したクルマだとされますが、当時6台のみしか製造されず、そして現存するのはわずか4台しかないのだそう(うち一台はメルセデス・ベンツが博物館に展示している)。
ブリッツェン・ベンツはなにもかもが「最高速達成」のために作られていた
メルセデス・ベンツのエンジニアは当時CFDソフトも風洞施設もない状態でこのクルマを可能な限り「空力的に最適化」しようと努めており、丸みをおびたフロント、空気を分断するように作られたエキゾーストパイプ付近からもその意図がわかります。
なお、実際に運転する際にはドライバーが低くしゃがむことで空気抵抗を削減し、さらにタイヤが細いのも「可能な限り空気の流れを邪魔しないため」。※当時は「そういった時代」ではあったが、安全性や人命が軽んじられていたことがわかる
エンジン始動はこのクランクにて行い・・・。
エキゾーストシステムはサイレンサーなしの「直管」。
ブリッツェン・ベンツはこういった背景から作られた
そこでこのブリッツェン・ベンツが作られた背景について述べてみると、当時ベンツ&Cieは世界最大の自動車メーカーであり、高品質な、そして信頼性の高い乗用車を作ることで知られていましたが、ライバルであったダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト(1926年にベンツ&Cieと合併する)はベンツ&Cieとは異なってモータースポーツに力を入れ、レースでの成功をプロモーションに活用していたと言われます。
そしてこの手法が大当たりしたためにベンツ&Cieは市場シェアを徐々に失うこととなってしまい、そこでベンツ&Cieは「パフォーマンスをアピールする」方向へと方針を転換。
1903年にはすでに列車が時速210kmを記録し、1906年には蒸気自動車が時速205.44kmという速度で走っていたため、ベンツ&Cieとしては「ガソリン車でこれらと並ぶ(もしくは上回る)記録を打ち立てる」ことで存在感を示そうと考えたわけですね。
こういった背景もあってベンツ&Cieは「200キロオーバーの」クルマの開発にかかりますが、当初は150馬力を発生するグランプリレーシング カーのエンジンをベースにする予定であったものの、そのエンジンでは時速200キロを超えて走れないことが判明。
この4気筒エンジンを排気量アップすることで200馬力を発生させることに成功し、この際に正式名称として「200PS」と命名されています。
車両が完成した後、このベンツ200PSは1909年11月8日にブルックランズ競馬場においてワークスドライバーのビクター・ヘメリのドライブによって0.5マイルで205.666 km/h、1マイルで202.648 km/hという平均速度を記録することになり、ここにはじめて「ガソリン車で200km/hの壁を破る」という偉業が達成されることに。
ただ、このブルックランズ競馬場はその性質上「オーバル」レイアウトを持ち、しかしそれ以上の速度を出そうとするともっと長い直線が必要であったため、ベンツはこの”ベンツ200PS”をアメリカへと運ぶこととなるのですが、1910年3月16日、真っ直ぐなデイトナビーチにて1マイルを時速211.97kmにまで加速して記録を伸ばしています。※1911年4月23日には時速228.1km を達成している
なお、アメリカではこのベンツ200PSは「ライトニング(稲妻)ベンツ」と呼ばれ、それがドイツ語に翻訳されて「ライトニング・ベンツ」と呼ばれるようになったとされ、そして1911年の記録は当時のどの自動車や鉄道よりも速く、それどころか航空機にも匹敵する速度であったといい、その後8年にわたってブリッツェン・ベンツはこの記録を保持し続けることに成功し、ベンツの名を世界に轟かせることとなっています。
参照:Mercedes-Benz