古来より「一人が楽しい」と大きく主張し認められたケースはない?
ときどき、世の中の風潮について疑問に思うことがあります。
それは「一人=寂しい」と認定されること。
古来より「独り寝」など、一人でいることと寂しさを表す言葉が多く、昔の川柳もそうですし、現代のサラリーマン川柳でもそれは同じ。
一人で寂しいということを詠む人はいても、「一人でよかった」「一人で楽しい」といった詠み人はいないんじゃないかとも記憶しています(もちろんすべてを網羅しているわけではないので、中にはそういった人がいる、もしくはいたかもしれない)。
日本の社会は同調圧力が強すぎる
これは日本における同調圧力を示す事例なんじゃないかと考えていますが、人と違うのは悪いことだ、組織に入って協調性を発揮し、人と同じことをしないといけない、といった風潮がそうさせるのかもしれません。
加えて、「子どもを作って家庭を築く」のが当然というのも社会的に一般常識として根付いていて、ぼくのように「そもそも子どもをつくる理由もわからないし、可愛いと思ったこともないし、子孫を残すことに抵抗感を覚える」という人間は完全に社会不適格だということになりそうです。
さらに言うと、日本は生活おいて「正解」がほぼ決められており、その正解から外れるということはすなわち「不」正解ということになり、あまりに生活しずらいと思うことも(合法で、人に何ら迷惑をかけていないとしても”標準”から外れることがよしとされない)。
食事のとり方によってその人の性格は大別される
ただ、世の中には「ぼっち席」を用意する飲食店も最近になってチラホラ。
「食事」についてはその人となりがよく現れると考えていて、大きく分けるとこの二つ。
「一人で食べるのは寂しい」
「一人で食べるのが好きだ」
これらは根本的に相違があり、ぼくは個を尊重するのでどちらがどうと断じることはできませんが、仮に「一人で食べるのは寂しい」「一人で食べるのが好きだ」という人同士が結婚して暮らすのはけっこう難しいだろうな、と思うことも。
もちろんお互いの考えを尊重してうまくやってゆくという方法もありますが、自分の性質に気づかず無理して生活したり、自分を理解してくれない相手に対して不満を募らせるケースもあるのかもしれません。
とりとめのない話にはなりましたが、近年ではネットの普及でこういった「ぼっっちマイノリティ(一人が好き)」の存在がクローズアップされたり、「こういった考え方もあるのか」ということに理解を示す人が増えていて、しかしやはり子どもを作らずにスーパーカーに乗るぼくに対する世間の風当たりは冷たいままだ、と感じます。