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105年前の今日(4月28日)、ランボルギーニ創業者、フェルッチョ・ランボルギーニが生まれる。10年しか会社にいなかったのに現在にいたるまで「ランボルギーニの顔」として語り継がれるほどの豪傑

2021/04/29

105年前の今日(4月28日)、ランボルギーニ創業者、フェルッチョ・ランボルギーニが生まれる

| フェルッチョ・ランボルギーニは様々な才能に長けた人物だったようだ |

ランボルギーニによれば「2021年4月28日、ランボルギーニの創業者であるフェルッチョ・ランボルギーニの生誕105周年を迎えた」とのこと。

フェルッチョ・ランボルギーニは1963年に(自動車メーカーとしての)ランボルギーニを興し、しかしその後1974年には会社を売却してしまい、つまり自身がランボルギーニにいたのはわずか10年ちょっとということになるものの、現在に至るまで「ランボルギーの歴史において、もっとも有名な人物」として知られるほど。

つまりはそれだけの個性を持ち、インパクトを残した人物だということになりますね。

1916年4月28日、農村に生まれる

フェルッチョ・ランボルギーニは1916年4月28日、イタリアはチェント(フェラーラ県)の自治体にある村落、レナッツォに生まれます。

実家は農家で、父アントニオと母エベリナとの間の長男として生を受けていますが、農業よりも工業に興味があったといい、当時の「長男は農家を次ぐべし」という伝統に反して機械工房に職を見つけることになりますが、その後折あしく第二次世界大戦が勃発して徴兵されることになり、ロードス島に駐留する第50混成機動部隊に配属されることに。

ここではディーゼルトラックや航空機を牽引するトラクターなど、島に存在するすべての軍用車両のメンテナンスを担当していたそうですが、フェルッチョ・ランボルギーニの息子、トニーノ・ランボルギーニの著書によれば「ある日、父は軍用車を意図的に壊して動かないようにし、さらには工具も隠して誰も修理ができないようにした」。

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そこでフェルッチョ・ランボルギーニは、あわてふためく上官の前にゆうゆうと現れ「自分ならなら修理できる」と声高らかに宣言したのち、隠し持った工具で見事修理してみせたようですが、これによって上官の信頼を勝ち取ることに成功して自身の待遇を高めた、と記されています。

これが事実であれば、そうとうに計算高い人物ということになりますが、このほかにもたくさんの(同様の)逸話があるので、とにかく商才に長けた人物だと考えて良さそうです。

そうやって上官たちが個人的に所有するクルマの修理までを請け負ってお金を貯めるという日々を過ごしていたものの、その際にも「戦争が終わればお金はゴミ同然にまで価値を失う」ことがわかっていたため、銀や金といった貴金属のみを報酬として受け取ることに。

さらにはそれらを軍の施設とは無関係の場所に隠しておき(敗戦に伴い、敵国から捜索を受けて没収させる可能性があったので)、戦争が終わってほとぼりが冷めた頃にその貴金属を取りに戻り、それを元手に自分の修理工場を(ロードス島に)開いたようですね。

イタリアではトラクターに勝機を見出す

1946年にはイタリアへと戻り、そこでは経済復興のための優遇措置を利用してチェントに機械工場を開設し、自動車の修理や小型の実用車の製作を行ったものの、地元の農業が危機に瀕しているのを目の当たりにして「トラクターが売れるのでは」と思いつきます。

ただし価格が高ければ小規模農場にとって手が届かないものになってしまうため、払下げ軍用車のパーツを使用して安価なトラクターを作り、1948年2月3日に最初のトラクターを販売した、という記録が残っているそうですが、このあたりもやはりフェルッチョ・ランボルギーニの商才を感じさせるところ。

同時に、父親を説得して家族の農場や全財産を担保に入れて銀行からお金を借り、1000台ものエンジンを購入するといった豪胆さを見せており、先見性と技術に加え、優れた判断力と行動力を備えていたこともわかります。

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ついにスーパーカービジネスへ

思い切った投資と生産能力の拡大によってフェルッチョ・ランボルギーニはどんどん会社を大きくしてゆきますが、ここでついに「スーパーカービジネス」へと乗り出すことに。

そのきっかけとしてよく知られるのは「自身が購入したフェラーリがあまりによく壊れるので、技術者の立場としてエンツォ・フェラーリのもとへと改善提案に向かったところ、”トラクター野郎はトラクターでも作ってろ”と追い返され、フェラーリを見返そうとした」というものですが、ランボルギーニに近い人物、たとえばランボルギーニ婦人はこの説を否定しており、むしろエンツォ・フェラーリとの関係は悪くなかったとも言われます。

そしてトニーノ・ランボルギーニによると、「スーパーカーをつくれば会社の名が売れるようになり、現在作っている製品(当時は冷蔵庫やエアコンも作っていた)の宣伝に役立つだろう」という商業的理由によってスーパーカービジネスに乗り出した、とのこと。

じゃあ「エンツォに無下に追い返された」という話はどこから?ということになりますが、どうやらこれは自身で流布した話であるようで、これもまた「無名の新興スーパーカーメーカーの名を売るには、フェラーリを引き合いに出せば注目を集めるだろうと考えたから」だと言われています。※パオロ・スタンツァーニはこの説を支持

これが事実かどうかは定かではないものの、「フェラーリに軽んじられたために、それに負けないスーパーカーを作ろうと思った」という説が今に至るまで広く信じられており、これによって「ランボルギーニ=フェラーリの対抗」というイメージを持つ人が多いのもまた事実で、これもまたフェルッチョ・ランボルギーニの商才を如実に語る部分です。

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ランボルギーニのエンブレムはグラフィックデザイナーの作品だった

なお、今回ランボルギーニは公式に「ファイティングブル」エンブレム誕生秘話についても触れており、これによると、ランボルギーニのエンブレムはフェルッチョ・ランボルギーニが地元の有名なグラフィック・デザイナーであるパオロ・ランバルディに依頼してできたもの。

それまで(スーパーカーを発売するまで)トラクターにつけられていたのは「三角形にFLC(Ferruccio Lamborghini Cento)の文字をあしらった」だけのシンプルな図案で、しかしフェルッチョ・ランボルギーニは(フェラーリに対抗するには)なんらかのエンブレムが必要だと考えたようですね。

そしてパオロ・ランバルディは、フェルッチョ・ランボルギーニの特徴でもある「雄牛のごときtamugno(方言で硬い、強い、頑固という意味)」な性格、フェルッチョ・ランボルギーニの星座(牡牛座)を組み合わせて現在にまで続くファイティングブルをデザインした、と紹介されています。

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参照:Lamborghini

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