
Image:lamborghini
| ランボルギーニ・ミウラは当初「完成車」ではなくシャシーのみの発表であった |
この記事のポイント
- 1965年トリノモーターショーで公開されたのは、完成車ではなく“シャシーだけ”だった
- ランボルギーニの若き3人が生み出した大胆なアイデアがミウラ誕生の起点に
- エンジン・ミッション一体型レイアウトなど、当時の常識を覆す技術が満載
ベルトーネとの運命的な出会いがデザインを決定づける - 2026年、ミウラ誕生60周年を記念した公式イベントが開催予定
Image:lamborghini
【驚愕の真実】1965年トリノショーで世界を震撼させた“ミウラ誕生のシャシー”とは|ランボルギーニ史を変えた瞬間
1965年のトリノ・モーターショーでランボルギーニが行ったのが「普通ではありえない展示」。
それは美しいボディを纏う完成車ではなく、無骨な“むき出しのシャシー”のみをブースの中央に置くという手法です。
しかしこの一台のシャシーこそが、後に 世界初のスーパーカー「ミウラ」 として伝説を築くことになる、まさに革命の原点でもあったわけですね。
なお、ミウラは「世界初のスーパーカー」としてのみではなく、「世界初の大排気量ミドシップスポーツ」としても知られていますが、ここで「その革新的なシャシーがどのように誕生し、なぜ自動車史に残る象徴となったのか」を探ってみたいと思います。
Image:lamborghini
1965年11月のトリノショーで「革命」がはじまる
1965年11月のトリノショー。ランボルギーニの展示スタンドに置かれていたのは、軽量化のために穴が無数に開けられた折り曲げ鋼板で組まれたシャシー、そしてそこに横置きされる4リッターV12エンジン。
この“インテリアもボディもない構造物”が華やかなモーターショーの場ではむしろ異彩を放ち、来場者とメディアの視線を完全に奪ったわけですね。
そしてこのミウラは当時としては信じられないコンセプト――
「レーシングカーのようなレイアウトを、ロードカーに持ち込む」
この挑戦を起点としており、ランボルギーニ社内の若き3人の情熱から始まります。
Image:lamborghini
若い3人のエンジニアが起こした“反逆”
この「3人のエンジニア」は当時20代前半。
ランボルギーニは創業時から「会社としてモータースポーツ活動を行わない」という社是を掲げており、彼らは「レースに出られないなら、モータースポーツ由来の技術をロードカーに持ち込めばいい」という大胆な発想からL105プロジェクトをスタートさせています。
- ジャンパオロ・ダラーラ
- パオロ・スタンツァーニ
- ボブ・ウォレス(テストドライバー)
-
-
ランボルギーニ・ミウラの生みの親、パオロ・スタンツァーニ氏が亡くなる。その功績を振り返ってみよう
| パオロ・スナンツァーニ抜きではランボルギーニを語ることはできない | 最初の350GTにはじまり、ミウラ、カウンタック、エスパーダ、ウラッコにも大きく関与 元ランボルギーニのチーフエンジニア、パオ ...
続きを見る
なお、ランボルギーニが「モータースポーツ活動を行わない」理由としては大きく分けて2つあったとされ、ひとつは「フェラーリと同じ土俵で戦うのはビジネス上得策ではなく、よってロードカーに特化することで差別化戦略を採用した(創業者であるフェルッチ・ランボルギーニはなによりもビジネスマンであった)」、そして創業時にV12エンジンの設計を依頼したジオット・ビッザリーニ氏(”宮廷の反乱”によってフェラーリを追放されている)が”いかにモータースポーツが企業を疲弊させるか”を自身の経験交えフェルッチョ・ランボルギーニに説いたから」。
なお、フェルッチョ・ランボルギーニは「自身がリーダーシップをとって物事を推し進めるカリスマ経営者」というよりは、若手を起用してアイデアを出させ、彼らを成長させることで企業を育てるというスタンスにて会社を運営していたようで、「面倒見の良い親分肌」と評されることも。
-
-
105年前の今日(4月28日)、ランボルギーニ創業者、フェルッチョ・ランボルギーニが生まれる。10年しか会社にいなかったのに現在にいたるまで「ランボルギーニの顔」として語り継がれるほどの豪傑
| フェルッチョ・ランボルギーニは様々な才能に長けた人物だったようだ | ランボルギーニによれば「2021年4月28日、ランボルギーニの創業者であるフェルッチョ・ランボルギーニの生誕105周年を迎えた ...
続きを見る
そしてこの「L105」プロジェクトも最初はフェルッチョ・ランボルギーニの反対にあったものの、3人の情熱に押されて最終的には「やってみろ」ということでゴーサインが出されています。
-
-
フェラーリ250GTO生みの親、そしてランボルギーニを支えたV12エンジン設計者、ジオット・ビッザリーニが96歳で亡くなる。この人なしにスーパーカーの時代はやってこなかった
| 類まれなる才能、そして情熱を持った人物がまた一人失われる | とくにランボルギーニ最初のモデル、350GTからムルシエラゴにまで積まれるV12エンジンを設計した功績は大きい さて、ランボルギーニに ...
続きを見る
Image:lamborghini
車種概要・技術特徴
■シャシー構造の革新性
1965年に公開されたP400シャシーは、以下のように当時としては異例尽くしの構造を持っており、しかしこのエンジン横置き+トランスミッション一体型パワートレインこそが、後のミウラの象徴となり、以降のスーパースポーツカーの基礎概念となったわけですね(当時、レーシングカーではミドシップが存在したが、ロードカーでミドシップというのは常識になかった)。
主な構造・スペック(箇条書き)
- 材料:0.8mm鋼板を折り曲げ、軽量化のため多数の穴開け加工を実施
- 中央タブ構造:サスペンションを支えるメインフレーム※当時は鋼管スペースフレームが一般的
- 前後サブフレーム:機械部品・サスペンション・補機類の取り付け
- シャシー重量:わずか120kg
- サスペンション:前後ダブルウィッシュボーン
- ブレーキ:Girling製ディスク
- ホイール:ボラーニ製ワイヤーホイール
- キャブレター:12本の垂直吸気トランペット
- 最大の革新:エンジンとギアボックスを一体化した“横置きパワートレイン”
Image:lamborghini
■コーチビルダーとの“運命の出会い”
まずはローリングシャシーが制作され、そこから次に考えるべきは「ボディの架装」。
当初はカロッツェリア・トゥーリングに“プロジェクト・ティグレ”として話を持ってゆくものの、このプランは(カロッツェリア・トゥーリングの)経営不振で続行は困難に。※当時、自動車メーカーはシャシーとエンジンを製造し、ボディのデザインや設計、製造は別の架装業者(コーチビルダー。イタリアだとカロッツェリア)に任せるのが通常の流れであった
-
-
よく名前の出て来るベルトーネ。そのデザインや「なぜ消滅したのか」を考えてみる
| ぜひとも後世に残ってほしかったが | 自動車史において外すことができない存在、「ベルトーネ」。1912年にイタリア・トリノで創業し、1930年創業のピニンファリーナ、1968年創業のイタルデザイン ...
続きを見る
そこで現れたのがヌッチオ・ベルトーネですが、ベルトーネに白羽の矢が立ったのは、(ボディ製造業者を探し歩いていた)ジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァー二が別のモーターショーで見かけたアルファロメオのコンセプトカーに感銘を受け、そのデザインを担当したカロッツェリアがベルトーネだったから。
ただ、当時ベルトーネはさほど知られた存在ではなかったようで、フェルッチオ・ランボルギーニからは「最後に来たコーチビルダーだな」などとと冗談を言われつつ、しかしベルトーネはシャシーを見ながら
「この素晴らしい“足”に、完璧な“靴”を作ろう」
と返したという伝説のエピソードが残ります。
この出会いにより、ミウラのボディデザインはベルトーネに託され、工場閉鎖中のクリスマス休暇に持ち込まれたスケッチは即座に採用。
翌年1966年のジュネーブショーで、ミウラはついに「世界初のスーパーカーとして」姿を現します。
市場での位置付け・競合比較
ミウラが登場する1966年、以下のような「既存の高性能車」は存在したものの、いずれも”フロントエンジン”GTです。
- フェラーリ 275 GTB
- マセラティ ミストラル
- アストンマーティン DB5
そこに突如として現れたのが、「ミドシップ・V12・横置きパワートレイン」という、完全に異次元の存在としてのミウラ。
ミウラの登場によってクルマの世界には “スーパーカー” という言葉が誕生し、以降のスーパースポーツの基準が再定義されることとなったわけですね。
まとめ
1965年のトリノショーで公開された“むき出しのシャシー”は、ただの試作品ではなく、 それはミウラという伝説の始まりであり、世界初のスーパーカー誕生の瞬間そのもの。
2026年にはミウラ誕生60周年を記念する公式イベントやポロストリコ(Polo Storico)ツアーが開催予定だとされますが、半世紀以上経っても色褪せない魅力を放ち、そしてその源である”常識にとらわれない革新性””予想外の行動”こそが、ランボルギーニを今なお“孤高のブランド”として存在させ続ける理由なのかもしれません。
-
-
ランボルギーニ・ポロストリコ、創設10周年に際し「ミウラ60周年ツアー」を発表。現存する「最古のランボルギーニ」も公開
Image:lamborghini | ランボルギーニはいまや「過去のクルマの価値をいかに維持するか」という段階に | ヴィンテージモデルの価値が「現行モデルの価格を決める」 ランボルギーニが2025 ...
続きを見る
ライバルであるフェラーリのように「モータースポーツでは戦えず」、しかし自身が考える技術をなんとか証明したかったエンジニアたちが選んだ場が「公道」であり、その手段が「ミドシップ」。
なんともユニークな背景を持つのがこのミウラではあるものの、なんといってもミウラをミウラたらしめ、スポーツカー業界に革命を起こしたのは若き3人のエンジニアであり、その情熱が形を取ることができたからだといえそうです。
-
-
ランボルギーニ、「ミウラ」を復活させないと明言。デザイン責任者が語る「未来志向のデザイン哲学」とは
| ランボルギーニ、「ミウラ」を復活させないと明言 | 現在のランボルギーニは「リバイバル」ではなく「未来」を見据える ランボルギーニは「世界初のスーパーカー」と言われるミウラを世に送り出したブランド ...
続きを見る
あわせて読みたい、ランボルギーニ・ミウラ関連投稿
-
-
ランボルギーニの伝説「SV」が意味するもの:ミウラの「Spinto Veloce」から現代の「SuperVeloce」まで。ミウラの「SV」は「リスキー」をあらわしていた?
| 「SV」の意味は時代とともに変わり続ける | ランボルギーニにおける「SV」は何を意味するのか さて、ランボルギーニのハードコアモデルには「SV」という称号が付与されることが多く、しかしこれは現時 ...
続きを見る
-
-
近年否定されがちなトレンドのひとつ「フェイクテールパイプ」の元祖はなんとランボルギーニ・ミウラだった。「初のスーパーカー」が「初のダミーパイプ」を持つという衝撃の事実
| ランボルギーニは1966年から1970年までこの「フェイクテールパイプ」を採用し続ける | 1971年に廃止されているところを見るに、当時としても論争の的となったのかも さて、近年の自動車業界にお ...
続きを見る
-
-
イタリアはランボルギーニ本社併設の博物館へと行ってきた。カウンタック、ミウラ等どういった展示がなされているのかを見てみよう【動画】
| ランボルギーニ博物館にはまさに同社の「歴史」が詰まっている | プリプロダクションモデルなどの「貴重な」個体も収容される さて、ランボルギーニ博物館(ムゼオ・アウトモビリ・ランボルギーニ)を訪問し ...
続きを見る
-
-
ランボルギーニによって製造された「イオタスペック」、ミウラSVRとはいったいどういったクルマなのか?どうやって改装され、どうやって日本にたどり着いたのか
| 現在このランボルギーニ・ミウラ「SVR」は日本のオーナーによって保管されている | もともとはミウラSVとして誕生するも事故をきっかけに「SVR」へ さて、自動車愛好家が何十年にもわたって「最も美 ...
続きを見る
参照:Lamborghini





















